昭和二十年八月十四日
岩国空襲で母と弟が亡くなりました
紙 矢 一 榮
岩国は終戦前たびたび米軍の爆撃があり、千数百人の尊い人命が奪われ、多くの負傷者と家屋や財産を失いました。
当時、私は国民学校六年生でした。学校では米英撃滅の教育をうけ、戦争に勝つため授業から食糧増産のための毎日でした。
私共の運命を変えたのは、あの昭和二〇年八月六日の広島に投下された原爆の日からになります。
その朝、私は柳井北部の横川で畑の草取りをしていました。その時「ピカッ」と閃光が走り、しばらくして「バシーン」と生まれて初めて聞く大音響でした。のちにそれが広島へ投下された原爆であったことが知らされましたが、その原爆で岩国から広島に通学中の従姉が被爆死しました。母は五才の弟を連れて岩国行き、従姉の親族の方や岩国に住んでいた次姉たちによって葬儀がおこなわれました。
ところが翌日は終戦という前日の八月十四日の正午頃、米軍機による岩国駅空襲によって、母は空爆死、弟は行方不明となりました。その知らせをうけた私たちは愕然としました。翌朝、老父や長姉と一緒にB29が爆撃した現地岩国に入ったところ、岩国駅周辺は爆弾の大穴が無数にあって、その中に水が湧き、建物は残骸のみで人馬の死体臭が鼻をつき、ただただ呆然とする状況でした。あちらこちらと探しまわって気が付いたら草履は水浸しで破れて裸足になっていました。それまで鼻についていた異臭も慣れて匂わなくなっていました。
亡くなった母を火葬する市役所裏の野菜市場に行ったら、犠牲者の遺体が五米ぐらいの高さに山積みしてありました。その中程に、母の遺体をゴザに巻いて積んだと言われるので、立ち入り禁止になっていましたが、母の最後を見届けようと中に入りました。
ところが、その現場を警備しておられた在郷軍人の方を、「何故立ち入らせたか」と言って憲兵が一米くらいの角材でお尻を殴っているので、びっくりしてそこへ急行しましたが、既に憲兵は立ち去っていました。
老父が、「骨を拾うとき、小さい骨をえっと(沢山)拾えば、その中に亡母の骨があろう」とういうので、母との対面を諦めました。
弟が空爆死したと思われる、駅前の防空壕やその周辺を探しましたが見当たりませんせした。私たちの目の前で中学校一年生と思われる遺体が掘り出されましたが、頭の皮は剥ぎとられ脳が流れおちていました。何と酷いことよと、手を合わせ絶句しました。
また、水が湧いた爆弾の穴からぶつぶつと泡が上がっていましたが、そこからひきあげられたのは老婦人の遺体でした。
弟の遺体は何処にも見当たりませんでした。私たちは在郷軍人の方に「右人差し指の第一関節から先がないのを手掛かりに弟を探してください」とお願いしました。弟の遺体はその後も発見できず、行方不明(爆弾が直撃したと推定)となったことは残念で断腸の思いでした。
母と弟を一度になくしたことで、老父は落胆しその日から気力を失い、茫然とした毎日でした、老父の両足は神経痛で、関節はリュウマチを患っており、特に寒い冬は腫れて激痛に苦しんでいました。「わしがお母さんの代わりに爆死すればよかった」とたびたび苦言を呈するので、その都度私は老父を励まし、慰めてやりました。
私も、母や弟が戦災死したことで心の痛みと、母がしていた農作業や薪作り、洗濯や食事の支度など老父と協力しながら行いましたが、その負担は大変なものでした。
六年生から柳井商工学校商学科に入学しました。二年生になった時、新制中学校が発足し、私は併設中学校から柳井商工高等学校へと進みました。
二人の姉は適齢期を迎え、それぞれ他家に嫁ぎ、それかたは老父と二人の苦闘が始まりました。期間はそう長くはなかったけれど、私には大変長く感じられました。
稲作や野菜づくりの時期には、日照りが続くと雨が降ってくれることを願い、台風がこなければよいがと学校の授業中でもいろいろ気をもみました。友人は昼食の弁当に何が入っているか楽しみにしていましたが、私のは自分が作るので中味はわかっているので楽しみはありません。それでも腹が減るのでおいしくいただきました。
高校一年生の時、先輩が野球をやろうとすすめてもらい、ありがたかったけれど、家庭の事情でそれどころではありませんでした。家庭の仕事に支障のない、時事問題研究部を創設しましたが、就職試験対策にもなり、多くの入部があって良いことができました。
母親がいないことで、老父子家庭となり、就職試験の前提となる書類選考で失格したこともありました。
昭和二七年三月、柳井商工高等学校商業科を先生や多くの皆さんのご指導、ご支援を頂き卒業することができました。授業中よくいびきかいて叱られた英語の先生にお礼に伺うと、とたんに「君には悪いことをした」と涙を流しながら頭を下げて謝罪されるので理由を聞いたところ「実は君が書いた英語の作文の“マイホーム”を読んだら、朝早く起きて水田の水回りを済ませ、老父と朝食をし、弁当を作って通学している生徒であった。また岩国空襲でお母さんと弟さんを失ったことも書いてあった、他の生徒に迷惑をかけるのでよく注意したが疲れが授業中にでて、いびきをかくのを知らなかった。教師は生徒の家庭事情をよく知って、指導すべきであった」と話されました。
いびきをかいた私が悪いので、あらためてお礼を申しました。
老父と意見が対立したり、思うようにならないと、ストレスが高じることも多く、その時には小石を裏山に投げ込んだり、小石をバット代用の棒で打ち込んだりして気を静めて頑張って得た卒業でした。
また、何よりも泣いて喜んでくれたのは老父でありました。
昭和二七年四月、柳井農協に就職しましたが、体調を崩して退職しました。体調も回復したので、国鉄採用試験を受け、昭和二八年三月一日付けで広島保線区に就職しました。
職場の上司が、老父の病院のことを心配されて、成人したら君が世帯主になって老父を扶養家族にすれば扶養手当、共済組合から医療費も半額給付されるといって手続きをして下さいました。大変ありがたいことと老父と二人で喜びあいました。
昭和二九年、寒い冬がやってきましたので、老父に医療費(健康保険の二分の一、共済組合の二分の一)が少なくて済むので、冬の間は入院したら体のために良いとすすめたけれど、老父は「ありがたいが、うちで頑張って、うちで死ぬ」と強く反対するので困りました。
昭和三〇年一〇月一九日早朝、たびたび寝返るので老父の体を抱き起こすと脂汗をかいて苦しんでおりました。背中をなでてやりましたら「カズ医者を呼ばんでもよい。ここにいてくれ」と言いましたが、近所の人に呼んでもらうように依頼しました。
老父は「カズ水をくれ」と苦しみながらいいました。コップで口に持って行くと飲干し、苦しみながら「早ようえっと(多く)くれ」と怒鳴るように言いました。肩を抱いて水を飲ませ背中をさすると「うっうっ」と唸り大量の血を吐きました。私も老父も吐血で血まみれになり、これが老父の最後だと直感すると呼吸の無い眠りにつきました。
老父の遺体を洗うため、大窯で湯を沸かして、血まみれの着衣を脱がせ、大タライで洗い、血のついた布団や着衣は人目につかない場所に納め、掃除して新しい布団を敷き、新しい着物を着せて老父を安堵させました。
病身の老父は、体が痛むので一時しのぎと気晴らしに酒をよく飲みました。体に悪いとたびたび注意しましたが止めませんでした。亡くなってから“もっと優しく”すればよかったと反省しました。
老父が生前「カズ嫁をもろうてくれ」とたびたび話しました。あんまり言われるとその気になりませんでした。若輩が妻をめとっても、幸せにする自信もなく、別嬪でしっかりしたのがおると職場の皆さんのすすめもありましたが断ってきました。
良かったことは、給料は袋のまま老父に渡しましたが、別に喜びもせず「うん、預かっておく」とだけいっていました。親しい方には、カズはこのようにしていると話していたようで、渡した給料は貯金してくれていました。
葬式には次姉(大阪市)、長姉(東京都三鷹市)の順で帰ってくれましたが、姉たちは泣いて悔やみました。その時、亡き父が「カズ一人でようやってくれた」と褒めてくれたようなきがしました。その瞬間、はじめて涙がでました。
地下の皆さんの尽力で立派な葬式をしていただき、深く感謝しました。
長姉が「お嫁さんをもらわんと、安心して三鷹に帰れない」と一生懸命私を説得しました。そしたら急にお嫁さんの話があり、亡父四九日の法要を済ませて結婚式をあげました。私は二二才。妻は一九才でした。
亡父は新所帯を持っても困らないように、心がけてくれていました。子が親のことを思う以上に、親は子を見守ってくれていたと感激しました。
ふりかえってみると、戦争したことは、馬鹿なことであった。天皇陛下の終戦の詔書は、昭和二〇年八月一四日付けであった。岩国駅周辺の空爆は、八月一四日正午であり、米軍は無条件降伏をしたことを知っていたように思えます。
難しいことがあったと思うが爆撃は止めてほしかった。岩国駅周辺と光市が同日爆撃され、併せて千余名の尊い人命が失われたことは誠に残念で悔やみきれません。
最近の新聞に、昭和二〇年三月一〇日東京空襲の遺族や負債者が十一月二九日、東京都内で開いた集会で、国に損害賠償と謝罪を求める訴訟を来年三月九日に東京地裁に起こすことを決め、各地から一三八人が参加する原告団を結成されたという。
靖国を論ずる前に議論があっても良かったと思います。
岩国空襲や戦争の惨めさを若い世代の方々に語り継ぎ、理解を深めていただくよう務めたいと思います。
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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