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岩国空襲体験談  「復員した日が母の葬儀」 川元 巌

 復員した日が母の葬儀

 

川元 巌

 

 私は、昭和二年六月、父川元亀、母ウメヨの第三子の長男として生まれた。当時我が家は、現在の帝人製機岩国工場のある所で、今は日の出町といわれているが当時は川口町であった。家業は四町八反の農家だった。その農地を帝人製機の設立のため買収されて麻里布に移り住むことになった。私は麻里布小学校を経て、岩国中学校に入学したが、戦況が一段と厳しさを増した昭和十八年十月(十六才)甲飛一三期生として鹿児島海軍航空隊に入隊した。

 ここで海軍航空兵としての基礎教育をうけ、昭和十九年八月には高知海軍航空隊に移り、高地では実践教育を受けることになっていた。しかし高知に転属になった頃には、航空機、燃料とも不足し、米軍の本土上陸に備えるということでまともな実戦訓練を受けることなく毎日がタコ壺(縦に深く掘った一人用の塹壕)掘りであった。

 昭和二十年八月十五日、天皇の終戦詔書が放送され、部隊も解散となり、それぞれ郷里に帰ることになった。軍服二着と確か千円をもらって私も高知をあとにした。汽車で高松に行き宇高連絡船で宇野港に着き、再び汽車に乗って広島に着いた。広島は原爆によって廃墟となっており、食べるものも寝る所もなくウトウトと一夜を明かしたが、余りに酷い状況に ‶これがピカドンか〝とただただ驚くばかりであった。

 翌朝(八月二十一日)下りの列車に乗って岩国を目指したが、汽車は麻里布(現岩国駅)の手前の線路上で止まった。しばらくすると、三々五々、人々は列車から線路に下りて歩き始めたので、ここは駅が無いのだと解り、自分も下りて駅前あたりに出た。そこで目にしたものは、広島のように何も無い岩国だった。ただ爆弾による大穴がいたる所にあいて寸断された道なき道を記憶をたどって藤中文房具店に辿り着いたが、駅前の山根自転車の前の溝には紫色になった腐敗した遺体がそのままになっていた。家に着いてからも裏の田圃の用水路にも臥さったままの男性の遺体があった。その人は室の木の国鉄で働いていた人だと後で知らされた。藤中文具店から麻里布小学校に通じる一本道を歩いたが、憲兵隊の建物が無くなっていた。爆弾で壊れた時、秘密保持のためか火を点けて焼いたと言われていた。

 我が家が見えて来たが、大勢の人が出入りしていた。それは八月十四日の駅前空襲で亡くなった母の葬儀のためであった。母は自宅の傍で、B29が投下した爆弾の破片により後頭部をやられ、左足首を切断されて亡くなったということであった。また、一番上の姉も子供と一緒に駅の傍で爆弾により亡くなっていた。姉は、フィリピンから帰り藤生に疎開し、荷物の片付けが終わった事を母に知らせようと汽車で麻里布駅に着いた時に爆撃に遭い親子諸共命を奪われた。遺体を発見した人の話では、姉は子供を両手でしっかりと抱き締めたまま亡くなっていたそうだ。

 八月十四日になくなった母の葬式は、長男の私を迎えて行うため電報や電話などで捜したが、不明ということで連絡がつかなかった。葬式は死後一週間のうちに行うことが、仏事の仕来りとされており、葬儀を行う最終日に、自分が帰ってきたことは、亡き母の導きであったであろうか。

 岩国駅前空襲は、すでに終戦が決まっていた八月十四日であり、しかも全国でも希な絨毯爆撃であった。我が家は、毎年慰霊祭が行われている現在の麻里布第三公園の東角の桜木の所にあった。爆弾は、家そのものには当たらなかったが、家の東西南北に投下された。そのため屋根瓦や壁などは全部無くなり、家の骨組みだけが残っていた。母は家の西二十メートルの所に倒れていた。四十四才であった。

 ここで、父親亀のことについて一言触れておくことにする。父は、昭和七年、私が五才の時亡くなった。 三十六才であった。その頃、人絹町の繁華街に清中という商店があった。その年の一月二十四日、清中商店で火事があり、そこの主人が二階から飛び降りて足を骨折された。近くに医院が無かったので、怪我をした清中さんを、消火活動に従事していた父たち四人が、戸板に乗せて西岩国の医院まで走って運んだ。その日は雪の降る特別寒い日であった。そのため父の盲腸が破裂し腹膜炎をおこし、一週間後の二月一日に亡くなった。

 父が亡くなってからの母は、百姓にも精を出した。その無理がたたって度々病気になり、今津の鈴木病院に入退院を繰り返していた。私は、学校の帰りにはいつも、母の居る鈴木病院に寄って帰っていた。そうした時の家事は、いつも姉がしていた。

 話を元にかえして戦後のことについて触れてみたい。母の葬式の時は、私は無性に悲しくずっと泣き続けていたように思う。しかし、悲しみに何時までも浸ることは許されなかった。これからどうやって生きていくかを真剣に考えなければならなかった。父母の無い我が家は、岩女を出てタツミ工業で働くようになった次女の姉の他は、十六才の弟と十二才の妹と私であった。飯炊きは私がやった。食糧難の中、何も無い時は、田圃の畦で芹を採っては雑炊を作ったり、食うや食わずの生活だった。親が残してくれた貯金は相当な額だったが、金融緊急処置令で自由に使うことが出来なかった。

 年が明けて昭和二十一年四月、岩中(岩国中学)の同級生だった桜庭敏雄君が病死し、その法事に出席した際、山パル(山陽パルプ:現日本製紙)の製造部長であった敏雄君の父と出会うことになり、それが縁でその年の九月に山パルに入社し、研究所に配属となった。結婚したのは昭和二十六年で、三人の女子と一人の男子にめぐまれることになった。しかし今も決して忘れることが出来ないのは、長女の典江が事故で一才と八ヶ月の幼い命を奪われたことで、しかもその命を奪ったのが爆弾の穴であったことである。

 その年の梅雨は長雨で、来る日も来る日も雨が降り続き、雨水は道路に溢れ、家の前の爆弾の穴も満杯で、穴と道路の区別がつかない状況だった。近くに鶏小屋があり、子供でも人一倍元気な典江は鶏小屋から産み落とした卵を採ってくるのが日課のようになっていた。その日もいつものように鶏小屋に卵を採りにいって満水の爆弾穴に落ちてしまった。昭和二十八年七月二十二日のことであった。

 戦後六十三年経った今の世の中は、誰も想像出来ない程の荒廃状況となっている。親殺し、子殺し、友人殺しのニュースが毎日のように伝えられる。今日も、東大の息子が親父の頭をビール瓶で殴って殺害し鋸で切断したということが放映されていた。‶情けない" の一言に尽きる。どうしてこんな世の中になったであろうか。

 父と母が亡くなった年令を加えると八十才。自分は短命であった両親の人生を超えることが一つの望みだった。昨年その目標を達成し祝いを行った。亡き父母のお陰と心から感謝しない訳にはいかない。

 

「空襲の時代を生きて」より 発行日 平成二十一年五月二十五日

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