昭和十八~二十年八月六日の体験談
上村 てる子
今年は戦後70年の節目の年にあたります。国内外においても70年前の課題が上る場面が増える年になるのではないかと思っております。私は昭和18年女学校を卒業しまして、広島の白島にあります菅沼タイプ養成所を経て広島市役所に就職いたしました。当時私の自宅は大竹市の小方という所にあり、通勤には大竹から広島市役所まで汽車を乗り継ぎ1時間30分ばかり掛かりました。現在の様な電車ではなく石炭車でしたので1時間30分の通勤はとても苦痛でした。昭和19年の暮れに広島市役所を退職したのですが、当時広島市役所の課長に自ら退職を申し出ることは難しくて私の母に頼んでもらい退職をしました。
その後大竹潜水学校に再就職しました。その頃の事を少しお話したいと思います。皆さんは潜水艦を知っているでしょうか。その当時は今の様な大型な潜水艦ではなく十数人がやっとのことで乗りこむような小型の物で、潜水艇と呼ばれておりました。潜水学校とはその潜水艇に乗り込む兵士を訓練する所で私はタイピストとして潜水学校に入りました。時には訓練する兵士のお手伝いをしたこともありました。それはどういうことかというと、潜水艇の中と同じような狭さで訓練をしている兵士の状態を見守るようなことでした。兵士は壁の厚さ30センチぐらいの狭い部屋で空気清浄剤というものを使い、なんとか部屋の空気が保てる程度の息苦しい状態で訓練をしていました。訓練兵士の中には何日か経つと顔が腫れあがっていた人もいました。まさに訓練というより人体実験のようでした。その時、空襲警報がなったのです。私たちは潜水学校の校庭の横に土で小高く盛られていた防空壕に入りました。でも訓練中の兵士は部屋からは絶対に外にはでられません。そんな兵士たちを見て兵士はどこにいようと戦場にいるのと同じだと私は思いました。当時は軍関係に勤務する事が光栄だと思う時代でした。その潜水学校までは私の自宅から徒歩で40分かかりました。出勤途中B29が私の頭上を低飛行で旋回した事も何度か経験いたしました。幸いその時は爆撃を受けずに済みました。
しかし昭和20年8月6日、私はいつものように潜水学校に出勤後、点呼が済んで学校の机に着いた途端、大きな音がドーンとしました。何がなんだか分らずそのまま玄関へ飛び出しました。すると宮島の山の向こうにきのこの様な雲がモクモクと立っていました。見る見るうちに雲は黒くなり広がっていきました。その瞬間の出来事は今も私の脳裏を離れません。その後上司から大竹小学校に派遣として行くようにと指示があり大竹小学校の講堂へ行きました。そこではトラックで大勢の被爆した人が次から次へと運びこまれて来ました。その被爆した人たちの上着はもちろんの事下着までボロボロになってちぎれ、まるで生のわかめが垂れ下がった状態でした。火傷で体全体茶色に焦げ、皮膚は腫れあがり、その様子は見るに忍びない状況でした。その中に女学校時代同級生が一人いたのです。私は思わず「助けてあげて下さい」と軍医の石井先生に頼みました。その同級生の顔の皮膚は腫れあがり石井先生は頭と顔の境目当たりの皮膚をはさみで切除したのちリバノールという薬を塗って処置されました。私は先生と看護師さんの助手として包帯と綿花などを渡す手伝いをしました。なにぶん大勢の被爆した人が運ばれてきておりましたので、介護している間に介護用具がだんだん少なくなりました。当時介護用具は大竹にある作詞家の石本美由起先生の名曲に出てくる柿の木坂、その途中の民家の蔵を借りて保管していました。そこに保管していた介護用具を四、五人でリアカーを引いて取りに行った事を覚えております。その日は夕方になっても被爆者がトラックで運び込まれその看護の手伝いで時間も遅くなりました。当時自宅があった小方までは車は勿論の事交通機関がなかったことから、介護を供にした学校近くの友だちの家に数日泊まって看護の手伝いをいたしました。
その当時治療に携わった石井先生も数十年前に他界されました。8月6日の原爆の日になりますと70年前に看護した被爆者の事が思い出されます。私も当時広島市役所にそのまま勤めておりましたら丁度あの時期汽車に乗って現在の相生橋付近を通りかかっていたところだと思います。そうであれば、当然私も被爆死していました。そのことを思いますと現在まで長生き出来ていることに感謝の気持ちでいっぱいです。そのためにも8月6日の原爆記念式典には必ず岩国から参加しています。
現在も被爆された方々がおられますが一日でも長生きされて、元気で過ごされることを心よりお祈り申しあげたいと思います。世界は今なお争い事が絶えません。当時の原爆による惨状を思うと、絶対に戦争は避けるべきだと思います。広島と長崎へ投下された原爆により、今なお多くの被爆者がその後の障害に苦しんでおられます。しかし核兵器は依然として廃絶されず、人類の生存が脅かされ続けていることが誠に残念でなりません。地球上全ての人に原爆、核戦争は決して起こさないように訴え続けていくことが私に与えられた使命だと思います。
追伸 : 8月6日 原爆式典 当日の感想
8月6日の原爆式典が終わって木陰のベンチで二、三人で休んでいた時の話でございます。ボランティアの人に冷たいおしぼりを頂いて暑さを凌いでおりました。そこへ小学校五、六人の子供たちからいくつか質問を受けました。「おばあちゃんたちは原爆に遭ったのですか」と聞かれましたので「そうよ、日陰だったから命が助かることができたのよ」と話しました。そして「おばあちゃんたちにとって、平和とはなんですか」と質問を受けましたが、すぐにその質問に答えることが出来ませんでした。若い世代の人が平和についていかに関心を持っているかという事を痛感いたしました。その質問は一人一人が考えさせられる問題だと思いました。私の隣に座っておられた八十才ぐらいでしょうか。その人の体験談は広島へ来てから電車でご主人様の扁桃腺の手術に行く途中で電車に乗る直前だったため、その電車の陰で命拾いされたとの事でした。その電車の運転手はハンドルを握ったまま一番前で被爆死されたそうです。ご主人様の扁桃腺は手術をしなくても原爆の放射線で扁桃腺が破けたと話しておられ、今も存命だそうです。奥さまはその時足を骨折され、今もその足が不自由な様子でした。いつまでもその体験談を全国回って伝えていくことが、自分の生きがいだと話されていました。私もその方から生の体験談を聞き、心を打たれとても感激いたしました。
私の体験談と拙い話を熱心に聞いていただいてどうもありがとうございました。
「原爆と戦争展」 平成25年5月23日 戦争・被爆者”語り部”より
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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