目を覆う惨状
永谷 アキノ
私の夫は昭和十六年に召集がかかり、爪も切り出征の準備をしていたが突然急性肺炎を患って三〇才という若さでなくなった。当時四才(男)と一才(女)の子供を残して。その為私は岩国駅裏の人絹町で旅館業をしていた親元に帰り、仕事を手伝いながら生活をした。この頃は食料が欠乏し、すべてが配給制で、旅館には一日六十三人分が支給されていた。戦時中であるためなるべく一般のお客を泊めないで、全て兵隊さんに無料で食べてもらっていた。
兵隊さんはそれでも腹をすかして、大きな大豆カスの塊を金槌で砕いてかじっていた。それを見て「もう日本もダメだ」と思った。自分達も腹がへっていたが、食べるもので奉公するしかないと思った。
岩国航空隊の兵隊さんの多くは特攻隊で出発する時は旅館のものがみんなで今津あたりまで見送った。
昭和十九年になって、親から強制されて泣き泣き再婚することになった。夫は多くの人を使って陸燃関係の仕事をしていた。しかし、陸燃の空襲でその人達十三人死去し、夫だけがかろうじて生き残ることが出来た。
岩国も危なくなったので、私達は子ども二人をつれて特国(御庄)の知人の親戚の空家に疎開した。
大人はそこから歩いて仕事のために岩国に入っていた。
昭和二十年八月十四日の岩国空襲の時は、たまたま特国に戻っていたので助かった。空襲の翌日、両親の安否が心配で岩国に帰り親の無事を確認した。
しかし一変した岩国の惨状を見て驚いた。
駅に近い人絹町一帯も全て廃墟となっていた。旅館も焼けて無くなっていた。今の岩国信用金庫のところが警察署で旅館の隣には村岡写真屋、中川パン屋、前には麻里布病院なども焼けて野っぱら、瓦礫の山と変わり果てていた。その時「ああ、だめじゃこれでおしまいだ」と思った。それでも生きていくために、みんな立ち上がっていった。そのためにも、先ず住む場所を確保することで一番先に入手した物件は、裏に大きな爆弾の穴があり、その爆風で屋根も壁も全部吹き飛ばされた建物だった。その修理が大変でした。何とか雨露がしのげるまでになり、住む所の無い人達の大世帯で身を寄せ合い助け合いながらの生活が始まった。子ども達にはひもじい思いをさせたくないと考え、旅館業の許可をとり商売を始めた。
この頃、燃料の薪を取りに行って、その場所から人の足とか腕が発見される状況だった。そうした場合必ず両手を合わせて焼いてあげた。爆弾の穴は池になり、そこでフナを釣ったり、子供達はその穴の中で泳いだりしていた。破壊をされた食糧営団には腐った食糧が散乱して悪臭を放っていた。鼻をつまんで走り去る人もいたが、それでも生きるためにはそれを採って食べる人々もいた。
再婚してから五人の子供が授かって七人の親となり、戦後苦労のなか必死で生き抜いてきた。現在孫が十八人、ひ孫が十四人いて「おばあちゃん元気」と声を掛けてくれるので嬉しい。
今の世の中は乱れに乱れている。毎日の新聞やテレビに親が子供を殺し、子供が親を殺す事件を見ると、今の若いもんは何を考えているのかと思ったりする。夫婦も兄弟も仲良く助け合っていかなければいけない。自分中心ではなく、世のため人のためにつくす心がけが大切だと思う。又何でももったいないと感謝の気持ちを持ってほしい。そしてもう二度と戦争を絶対してはならない。世界の人々が平和で降伏であるよう毎日祈っている。
冊子「空襲の時代を生きて 岩国空襲の体験」より
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11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
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