7月 焼け後に艦載機で機銃掃射
仙台空襲 7月10日
「高等科二年の昭和二十年七月九日、仙台空襲にあった。夜、石油をまいてから焼夷弾を落とされ、全市が丸焼けになった。朝になると真っ黒の遺体があちこちに散乱していた」
「東京空襲で焼け出され、二年後に帰った仙台も焼け野原だった。市電の環状線の中がめちゃくちゃにやられた」
「母に背負われて、防空壕の上から仙台の空が真っ赤になっているのを見たのが忘れられない。仙台駅から二キロ離れた県庁、市役所が見えた」
宇都宮空襲 7月12日
「宇都宮の空襲もひどかった。空襲では米軍機が機銃掃射をしていたが、昼間はわたしたち小学生も狙われた。防空壕に逃げこんで見上げると黒めがねがはっきり見える位置まで低空飛行してきた。友だちは空襲で逃げる途中、焼夷弾をまともに頭の上に落とされて黒こげになって死んだ。乳母車に乗っていて撃たれて不自由になった人もいる。恐ろしくて毎日ふるえが止まらなかった。最近でも夢を見る」
北海道 7月14日、15日
「函館では津軽海峡の連絡船が米軍機につぎつぎ狙われて沈められた。燃えたまま港に突っ込んできた船もあり、乗組員や乗客はみんな死んだ。あまり発表されないのが惨いものだった」
「函館も空襲にあって駅前は焼けた。わたしは兄弟を連れて青森の親せきのところに疎開していたが、食べ物がなく苦労した。戦後函館に帰ろうとしたら連絡船が空襲で焼かれてしまって青森の港をさまよった」
「十九才で挺身隊に行くのがいやで、軍の飛行場に行ったら、そこが空襲を受け、グラマンが低空でとおっていくのを防空壕の中でぶるぶるふるえながら見ていた。いっぺんに百八発の爆弾でやられたこともあった。救援のためにこの辺りの婦人会のお母さんたちが動員され、大山口の駅に集まり、列車で行くときにその列車を狙って爆弾が落とされ、婦人会の人たちがたくさん死んだ。遺体がだれがだれだかわからないから、身内や夫が衣服で見分けながら袋に詰め、河原で焼いた」
青森空襲 7月28日
「青森も焼夷弾爆撃されて周辺も全部焼けた。街のまわりから爆弾を落として中心部に集めて皆殺しにした」
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
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