毎晩、都市が焼き払われる
静岡空襲 6月19日
「日銀と静岡銀行本店の辺りには死体が山と積まれていた。米軍は油をまいて焼夷弾を周囲から落としたので駅から呉服町商店街のあたりは火の海だった。いとこ二人が焼夷弾の直撃を受けて即死した。雨がザーザー降るように焼夷弾が降り注いだ」
「母は炎に包まれた市内を着物に火がついているのに気づかぬまま私を背負って逃げ回った。まわりの人が気づいてくれなかったら、わたしは生きたまま焼き殺されていた」
佐世保空襲 6月28日
「1945年6月29日の佐世保空襲で駅から佐世保島瀬公園側はすべて焼かれた。みんなやけどで体がぱんぱんになっていたのを何人も見た」
「人が住むところは逃げられないようにしてまわりから爆弾を落としていった。アメリカが必要な造船所などには爆弾を落とさなかった」
甲府空襲 7月6日
「昭和二十年七月六日は甲府駅前公園のあたりもパネルの写真と同じ行き地獄だった。夜十時半ごろからはじまって、街のまわりからマージャンの牌をかき回すような音を弾かせて照明弾が落ちてきた。それからバラバラと街を囲むようにつぎつぎと焼夷弾が落とされ、あっという間に火の海になった。舞鶴城のお堀は死体の山だった。生き地獄でした」
千葉空襲 6月10日、7月7日
「東京が危ないというので千葉に疎開したら、六月十日の千葉空襲で母と妹が死に、わたしと妹二人と弟が取り残された」
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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