―昭和20年3月10日の東京大空襲を皮切りに、
67都市の市街地を焼き払う無差別殺りく・焦土作戦を強行―
1945年の春から夏にかけて
日本中の都市が夜毎焼きつくされる
5日の夜 広島をいよいよ焼き払うと
ビラが落とされたという
2、3日前からの噂によって
市民の多くは周辺の山や畑に逃れ
濃い闇空の銀河のもと
不安な一夜を明かした
夜半 豊後水道より広島湾上空へ
二百のB29は侵入し旋回数十分
広島を襲うと見せて
突然進路を西南方へ変え
光市方面へ飛び去った
明け方 空襲警報は解除され
県内に侵入している敵機は四機
そしてやがて離脱したと
ラジオは報じ
7時50分 警戒警報も解除された
この時 市民はB29の爆音をきいたが
黒眼鏡をつけた米人の乗員が
人類の恥辱をのせた三機によって
高々度より侵入しつつあった事を
誰が知りえたろう
そして今夜も無事に済んだと
ほっと安堵した人々が
家に帰り 急いで朝食を済まし
出勤者は仕事場へ
隣組は市の周辺町村から市の中心部へ
それは統計でははかり出したように
一日の中で最も多数の市民が
屋外に溢れている時間であった。
峠 三吉「ずべての声は訴える」(抜粋)
―あの閃光が忘れえようか!―
1945年8月6日 午前8時15分 広島に世界初のウラニュウム235爆弾が投下され
8月9日午前11時 長崎にプルトニウム爆弾が投下された
広島では 全人口40万のうち
24万7千の生命が奪われた
軍事的には 決して勝負をそれのみでは
決しうるほどの力でないといわれる
原子爆弾が
なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたのか
落とされた広島は無防備の市民の上であったし
長崎では市街に近い宗教地域の上であった
落とされた時間は
市民をまるで塗擦場のように
中心部に集めていた
それらはすべて
みごとに計画されていたといえる
峠 三吉「すべての声は訴える」(抜粋)
―原子雲の下には何があったか―
あの茸状をした雲の下には
何があったのか
そこにあったのは
学校 病院 官庁 銀行 教会 商店
それらはすべて破壊されたが
炎の海の外側にあった
多くの軍需工場は
窓 扉 天井 が破壊された程度で
殆ど無傷であり
国鉄は三日間でその機能を回復した
実状であった
その炎の海で死んだのは
勤め人 学生 小児 などの老若市民であり
兵隊にしても
すでに出しつくされたあとの
力弱い兵隊であった
土橋町一帯では
市近辺よりの隣組 義勇隊の老人や子供を
背負った主婦たちが
同じ仕事にとりかかろうと集合して
汗をふいていたときだった
二千米はなれた横川町の狭い商店街は
郊外より市内へ出勤する人の群れで埋まり
三千米はなれた家庭では作業へ
あるいは職場へ
家族を送ったあとの年よりが
幼児が
朝食のあと始末に働こうとしていた
峠 三吉「すべての声は訴える」(抜粋)
●更新情報●
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