岩国原爆戦争展>展示内容>福島原発 福島原発事故>福島が復興できないわけがない 魚を食べて復興させた
魚を食べて復興させた
福島が復興できないわけがない
▸私たち被爆者は、放射能の存在すら知らされずに何年も広島で過ごし、放射能まみれの水を飲み、そこで育ったトマトをかじって生きてきた。白血病などの犠牲になった人もたくさんいるが、自分たちの故郷は自分たちで立て直すしかない。「70年は草木も生えない」といわれても、実際に草木は芽吹いてきた。今は「シーベルト」と数字を突きつけられて逆に恐ろしいだろうが、住民自身が判断できる明確な情報を流さない政府に原因がある。東京では、福島から来たというだけで子供が差別されて地元に帰ったというニュースが流されていたが、これは、被爆体験の継承をおろそかにしてきた国の責任だ。私たちが受けてきたいわれのない差別が65年たった今でも変わっていない。
(広島市 八〇代・男性被爆者)
▸被爆後の長崎は原子野と呼ばれるほど壊滅的な状況だったが、その焼け跡で芋やカボチャを育てたり、豊富な海の幸があったからこそ立て直してこれた。電気や金がいくらあっても、食料がなければ人は死に絶える。国は「食糧は輸入すればよい」といってきたが、日本の戦後復興の経験を今生かさなければいけないはずだ。
(長崎 八〇代・婦人被爆者)
▸いきなり土地から追い出される人たちの気持ちを思うとたまらないものがある。国は永久に汚染地域の土地を取り上げようとしているが、長崎でも爆心地もふくめて立派に復興させてきた。被爆から10年後のフィルムが最近出てきたが、ビルこそ建っていないが掘立小屋が立ち並び、人の賑わいを取り戻している。被爆二ヶ月後には長崎くんちも例年通りやり、困難なときこそ郷土の歴史と文化を守る市民の熱意は強かった。福島の場合、空気や土壌が汚染されたが、丸焼けになったわけでもなく、東電や国が生活を補償し、国策として元に戻す意志があれば必ず住民は戻れるはずだと思う。
(長崎市 七〇代・婦人被爆者)
▸母親が全身ヤケドで苦しみながら亡くなり、自分も脱毛、歯茎からの出血が続き、甲状腺の病気を患ってきた。私たちは原爆の廃墟に残されたが、多くの犠牲のうえに生かされたことへの感謝、身代わりに死んでいった母や兄弟のことを思いながら、焼け跡の泥水を飲み、雑草を食べてでも生き続けた。「子や孫に二度と自分たちのような経験をさせぬ」という戦後出発は、日本全国同じだったはずだ。でも、日本政府はアメリカのいいなりになって戦争責任を放棄してきた。戦争中は国民には「ほしがりません勝つまでは」といわせ、「一億総玉砕」といって殺しておきながら、自分たちはアメリカに従って国を食いつぶしてきた。アメリカも日本人を人間扱いせず、被爆者はモルモット同然の扱いだった。この政治を変えなければ日本人は原爆以上の惨憺たる地獄を見るようになると思う。
(長崎市 八十代・婦人被爆者)
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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