君のうちは宇品町
日清、日露の戦争以来、いつも日本の青年が、銃をもたされ、
引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に枕にこぼし
船倉に積みこまれ死ににいった広島の港町
(峠三吉 「その日はいつか」より)
バジー海峡で潜水艦に
丸ごと沈められた
「わたしは昭和十九(一九四四)年一月に召集で下関から出て、門司港を出発し、油田地帯であったスマトラ島(いまのインドネシア)に派遣された。もうその当時は、外地に兵隊を送るといってもまともな鉄砲がなく、飛び立つ日本の飛行機もいない。制海権も制空権もない。
マラッカ海峡で待ちかまえていたアメリカの潜水艦に、日本の輸送船がやられたという報せを聞くような状態だった」
(下関市・小松久雄)
「昭和十九年の九月ごろに、『南方に行く』という命令が下がった。広島の宇品港を出発し、門司で兵器と食糧を積みこみ、六連島に泊まってから、仏印(ベトナム)にさしかかったころ、アメリカの潜水艦にやられて沈没した。わたしは救命胴着を着ていたので救助船に引き揚げられて助かったが、戦地に着くまえにすでに多くの死者を出した」
(下関市・猿渡克巳)
「昭和十八年までは満州にいて、兵役が満期になっていったん帰ったが、十九年七月にまた召集された。フィリピンをめざしたが、九月九日、魔のバジー海峡で、三発ぐらい魚雷が命中した。臨時に甲板にあったものが吹き上げられ、吹き上げられたものが落ちてくるのにあたって、両隣の人は亡くなった。三千五百トンぐらいの船だったが、わずか五分ぐらいで沈んでしまった。わたしは、甲板で座っていたところを投げ出され、大きな材木をつかまえて浮かんでいた。三時にやられて、台湾から軍艦が来て、助け上げられたのが十一時頃だった。下に潜水艦がいるかもしれないので、止まらずに動きながらロープを落として、運良くつかまったものが助かるという状況だった。救助を待つあいだも、死体が累々と浮かんでいる。助かったものは五分の一ぐらいのほんの少しで、たくさんのものが犠牲になった」
(下関市・八十二歳、男性)
木製の銃と竹光を持たされて
「風土病の注射を胸に打たれて、昭和二〇年一月四日夜中に福岡の箱崎から輸送船で釜山に渡った。出るまえに武器が渡されたが、ほんとうの銃を持たされたのは五人に一人だけで、あとの四人は木製の銃だった。短剣は竹であった。腰に巻く弾倉は形だけで、中身は空であった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった」
(下関市 金子 一)
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11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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