長崎原爆

全国67都市の空襲の末 落された悲劇の始まり

―昭和20年3月10日の東京大空襲を皮切りに、

67都市の市街地を焼き払う無差別殺りく・焦土作戦を強行―

 昭和十六(一九四一)年の日米開戦以後、翌年のミッドウェー海戦の敗北、ガダルカナル敗北をへて、敗戦の前年昭和十九年六月には、「確固不抜の要塞」とされたサイパンと、近接するテニアンが陥落。米軍は太平洋の制空権、制海権を掌握し、マリアナ基地から日本本土を空襲する事が可能となった。

 日本の敗戦は動かし難い事実となり、七月、東条内閣は倒壊した。

 

 

だが、天皇制政府は無謀な戦争をやめるのではなく、輸送船を丸腰で送り出してはことごとく撃沈させ、南の島では取り残された兵隊が、飢えと病気で死に、この年で戦没者は激増した。

 アメリカは、こうしたなかで、B29による日本本土空襲を開始。昭和二十年三月十日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて六十七都市の市街地を焼き払う無差別殺りく・焦土作戦を強行した。


 ―あの閃光が忘れえようか!― 

1945年8月6日 午前8時15分 島に世界初のウラニュウム235爆弾投下され

1945年8月9日 午前11時 長崎にプルトニウム爆弾が投下された

広島では 全人口40万のうち

24万7千の生命が奪われた

軍事的には 決して勝負をそれのみでは

決しうるほどの力でないといわれる

原子爆弾が

なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたのか

落とされた広島は無防備の市民の上であったし

 

長崎では市街に近い宗教地域の上であった

落とされた時間は 

市民をまるで塗擦場のように

中心部に集めていた

それらはすべて

みごとに計画されていたといえる

峠 三吉「すべての声は訴える」(抜粋)


 ―原子雲の下には何があったか― 

長崎 戦前の浜町電車通り角
長崎 戦前の浜町電車通り角

 

 当時、わたしは高等科一年生で、茂里町の兵器工場に動員されて魚雷の部品をつくっていたが、その朝は警戒警報が鳴ったので休みになっていた。立山の畑で被爆した。ちょうど山陰になっていたのでひどいケガを負うことはなかったが、家はバラバラ、牛も吹き飛ばされて死んでいた。新興善国民学校に握り飯をもらいにいったときにみた情景がわすれられない。

               七三歳・男性

黒焦げの電車のなかには吊り皮をもって立ったまま死んでいる人や、材木を組んで人をイワシのように並べて焼いているのも見た。骨になってだれの骨かわからない。近所の人は髪の毛が抜けたり、歯茎から血がでたりして、薬の代わりに柿の葉を煎じて飲ましたりしていた。子どもが一番かわいそうだ。犠牲になったのはなにも知らない女、子供だった。


 

 十八歳で三菱の兵器工場に勤めていた。九日は工場の間を移動していたときだった。一瞬、ピカッと光って、そのあとはどうなったのか、まったく覚えがない。わたしは工場と工場の間の影だったから助かったが、多くの友だちが死んだ。父は造船所(三菱)の方で働いていた。聞いた話では船の上にいて、爆風で海に飛ばされて、たくさんの人が死んだ。父はそれから何日かして、真黄色の毒を吐いて亡くなった。

 姉は稲佐山の防空壕掘りを手伝っていた。警戒警報が解除になったので、防空壕からでたとき、原爆に吹き飛ばされた。ピカッと光っても防空壕に逃げこむ時間もなかったらしい。姉は長く生きていたけれど、結局卵巣にガンができ亡くなった。助かったのはわたしだけだった。

 

               七八歳・婦人

家は原爆でバラバラにされ、そのあとの生活が悲惨だった。なによりも食べるものがなかった。

 近所に船の技師がいて、広島造船所に出張に行って被爆し、顔や頭、身体に包帯がグルグル巻きにされて長崎にもどってきた。自宅で療養するのだといっていたが、それからすぐにまた原爆にやられた。家は壊され、負傷している身体にまた原爆だから気の毒としかいいようがない。このままでは原爆で亡くなった人たちがあまりにもかわいそうだ。アメリカにはぜったいに謝罪してもらわないといけない。そうでないと死ぬに死ねない。


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ところ:山口県岩国市中央図書館 展示室

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