―いまだに骨もわからないまま―
弟がいまだに骨もわからないままなので写真に写っていないかいつも探している。工業高校の生徒だった弟は毎日、炒り大豆ばかり食べて下痢をしていたので“お中が痛いからいきたくない”といっていたが、わたしは班長だった責任もあってダメだといってむりやり送り出した。
七十代(取材当時)・婦人
わたしが殺したようなものだと思い、原爆のことは口に出してこなかった。父に許しをこうと、父は”十五歳まで生きたと思えばいい”と慰めてくれたが、自分だけ生き残った負い目がある腹立たしく、悔しくずっと黙っていた…
「長崎の怒り」より(抜粋)
八月十日 人を捜しに行く人たち
わたしは金比羅山をこえて妹を捜しにいった。妹は、市立高等女学校で三菱製鉄所の鋳物工場に挺身隊で働いていて被爆し、油木谷まで逃げていた。そこで、田の水を飲んでいる。腐った水を飲んだのがいけなかったのか、腹の水がたぎってガラガラといって死んでいる。顔はすすけて、足を一寸ほど切っていた。一週間で亡くなった。近所のおじさんが助けてくれて、途中で「おじさん、わたしはいいからここに置いて先にいってください」というと「なにをいうか。生きないとだめだ。わしがかならず助けてやる」と怒ってたたかれたという。長与の方だったが、そのおじさんの方が一日早く亡くなった。ついで八月十七日に妹が亡くなった。大草の人がひきとって、食べ物も与えてくれていたが、「姉ちゃん…もう目が見えんと…」といって死んだ。大草で世話になったのでそこで妹を焼いた。
八十代(取材当時)・婦人
金比羅さんには西山の方へ逃げる人たちが途中で力尽きて寝ていたので、 家族が「いないか!」と叫んで探していた。寝ている人はみんな黒こげだった。医大の生徒が座っていて、父が「しっかりしろ」というとパタッと前のめりに倒れた。座ったままの死体だった。大橋の下には大学生が水を飲みに来て、祈り重なるようにして、そのまま死んでいたのはたまらなかった。*銃後の守りとして、食べ物もなく耐えて生活していたのに、どうしてこんな目にあわないといけないのか…
「長崎の怒り」より(抜粋)
*銃後の守り(じゅうごのまもり)とは、軍隊などで直接戦闘に参加したり戦闘部隊を支援する輸送部隊に参加するのではなく、それら軍隊が消費する資源・物資の供給を支えることによって戦争の遂行と勝利を支援するという考え方。戦場の後方である、銃後で働くことから。
ウィキペディアより
―ぼう然とたちつくす女性―
◀長崎 八月十日 爆心地付近
女性の足元には家が倒壊し焼死したと思われる老人の遺体がころがっていた
山端庸介氏撮影
なんのために死んだのか
七十九歳(取材当時)・婦人
私は当時十八歳で、出島で被爆した。十四才の妹は、大橋の兵器工場に動員で出ていて、いまだに骨も見つからない。思いだすと涙が出る。
翌日の十日から、父と一緒に妹を捜して歩いた。収容所になっているところはほとんど歩いたが、見つからなかった。途中、この写真のような光景をずっと見てきた。それから数日後に終戦だった。私はずっと「なんのためにみんな原爆でしんだのだろう」と思ってきた。父も母も数カ月後に腹がパンパンに膨れて死んでいった。私の友だちも、浦上に住んでいて、動員に出ているあいだに家族が全滅してしまった…
「沈黙を破る長崎の怒り2」より(抜粋)
―家族みんな殺された―
一年生のときに家族みんなが原爆で殺されて一人残された。お父さんと弟は家に帰ってきたが、真黒になって水ぶくれになって目は飛び出して、背もちぢんでいるように見えたが、そのまま亡くなった。母と姉はどこで亡くなったのかもいまだにわからない。
六十代(取材当時)・婦人・原爆孤児小学校
わたしも遊んでいた男の子がたまたま家に帰ったから、直爆を免れた。叔父さんの家にお世話になったけど、その叔父さんもすぐに死んだ。三年生のときにわたしは死にたいと思うほどだったが、必死に生きてきた。お墓の中は空っぽだ。
「長崎の怒り」より(抜粋)
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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