なぜ軍事施設もないこんな小島を
七月二四日柱島諸島空襲
「昭和20年、太平洋戦争の末期、瀬戸内海に浮かぶ周囲4㌔の黒島、民家21戸、住民100人余の小さい島に住んでいました。島民は半農半漁で漁業が主体の生活でした。私は、柱島国民学校黒島分教場初等科4年生に在籍していました。7月24日、一回目の空襲警報の後、私たちは登校しました。午前10時頃、二回目の空襲警報の後、グラマン機と思われる十数機が見えはじめた。先生が学校の南側にある防空壕に逃げるように指示されたが、子供たちのほとんどは北側の個人所有の防空壕へ避難した。私は学校の隣の我が家にカバンをなげすて共同でつくった防空壕めざして一目散にはしりました。入口にはいったと同時にものすごい爆音、爆風とともに土煙が防空壕のなかまで襲い、私はうつ伏せに倒された、一瞬のことで防空頭巾をかぶる間もなかった。
しかし、大人もふくめ一九名が避難した防空壕は直撃をうけて全員が生き埋めになってしまった。直後に現場にいった父の話では、海岸まで木や土がくずれて下の民家の屋根は大岩でおしつぶされ、出入り口はまったくわからなかった。しかし、地中から泣き声が聞こえていたとのことでした。二度目の空襲もあり、手作業での救助ははかどらず、遺体が学校へはこびこまれたのは、暗くなってからだった。投下管制の下でランプの灯りも回りを黒い布で遮られていましたが、安置された遺体の多さはいまもわすれることはできない。
さらに二日後の26日、ふたたびグラマン機の空襲をうけた。防空壕はあぶないということで、今度は山林ににげた。機銃掃射のビシッ、ビシッという音が追いかけてきた。このとき私より山林の20㍍くらい下にいた親子三人連れは爆弾の破片で負傷され、お母さんに背負われた赤ちゃんは破片が頭にあたり即死だった。黒島には、軍事施設もないのになぜ、二度も爆撃されたかわからない」
(三上(林)次郎、当時国民学校四年)
柱島諸島(柱島、端島、黒島)は岩国市の南東約26㌔にある
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「負傷のため兵役免除となり、帰島して柱島青年学校の指導員をしていた。午前10時頃と思う。南から北からの二度にわたる機銃掃射をうけた。私はとっさに防空壕にはいったが、青年学校の指導員という責任があり、国民学校の先生が止めるのも振り切って校舎に入った、見ると校内は散乱しており、机の脚は折れてあっち向きこっち向き倒れていた。廊下には機銃弾がくすぶっており、また宿直室には煙がたちこめていた。“火事だ。火事だ”と大声で知らすと先生はじめ近所の人が駆けつけてくれた。さいわい、大事にいたらなかった」「海軍探照灯には穴があいた。瀧本家は、その主砲による破片が家の屋根をつらぬき天井をとおって床下まで落ちた。また、当時、海軍修理工場があったが、そこは半壊だった。自家発電所も機銃掃射をうけた」
(森川無事郎、当時柱島青年学校指導員)
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