グラマン(米艦載機)の機銃掃射
松 本 絹 江(旧姓 頼広)
当時の私の家は、由宇川に架かっている千歳橋の傍らで、鉄工所を営み船や自動車などの修理をして生計をたてていた。私の隣の家が藤山米穀店で、その二階あたりに穀物を干す広いベランダがあった。
私はその家の友達と一緒に、その干し場で遊ぶのが慣わしだった。由宇小学校の三年を終えた昭和20年(1945年)3月19日も、隣りの友達と一緒に干し場で走りまわって遊んでいた。
その時、由宇の山の上から突如グラマン(米艦載機)が急降下してきた。眼鏡をかけたパイロット(操縦士)の顔が見えたその瞬間、パン、パン、パンと5~6発機銃掃射してきた。撃った銃の赤い火がパッ、パッと目に入った。あまりの怖さに、干し場からどうやって階段をかけ降りたのかわからなかった。友達はグラマンを背にしていたので、その恐怖はあまりなかったらしい。急いで帰ってそのことを父に話すと「このことは誰にも言うなよ」と父は強い口調で言った。だからそれからは誰にも言わなかった。このことが何のことだか分らなかったが、急降下してくる敵機の怖さは言葉では言いあらわすことのできないものだった。
あれから60年経った平成17年の8月14日の防長新聞「空襲を受ける大和を目撃」「60年前由宇河口から」と言う記事を読んで、はじめてあの日の謎がとけた思いがした。その新聞記事は、3月19日由宇町の柳村則雄さんが旧制岩国中学校1年の時、1年後輩の猿渡一郎さんと一緒に、由宇沖に停泊している戦艦大和を見るため、千鳥ヶ浜海水浴場に出かけた。浜に着いてみると、米軍のグラマン戦闘機40~50機が大和に向かって攻撃をおこなっている最中だった、という内容である。聞くところによると3月19日は、岩国がはじめて米軍機による空襲を受けた日で、私の機銃掃射の体験はその余波であったと理解することができた。
その後、広島にいる中学1年と小学5年の孫が、「おばあちゃん戦争体験の話をして」といってきたので、その体験を語って聞かせた。学校の平和学習のためだったが、私が話をしたのは、これがはじめてだった。孫たちは私の話を一生懸命に聞いてくれた。そしてその感想文を学校に提出して、先生から「大変な経験をされたんだね」と言われたそうだ。
その頃、由宇中学校には日本の兵隊が駐屯していた。原爆が投下された8月6日、駐屯していた兵隊さんが広島方面に行かれたが、夕方2人の被爆者の方をつれて帰られ、私の家に一晩泊めてあげることになった。被爆された人の姿はみるも無惨で、全身は真黒で衣服はボロボロ、とても怖くまともにみることはできなかった。しばらくして、近所にも多くの被爆者が凄惨な姿で帰ってこられた。5月10日の陸燃の空襲の時には、2軒隣りのおじさんが亡くなられた。
こうして戦争は次々と尊い命を奪っていく、二度と戦争を繰り返さないために、戦争をしらない若い世代、日本の未来を担う中学生や高校生たちに戦争体験を語り継いでいけなければならないと思う。思い出したくないが、孫たちが熱心に聞いてくれたので、胸のつかえがおりた思いがした。戦後は、ふすま(小麦をひいて粉にした時に残る皮の屑)を焼いて食べたり、芋の茎を食べたり、食糧難のなかを頑張って生きてきた。
山の端より不意にグラマン現れて
われの頭上に機銃掃射す
操縦士の太きゴーグル迫りしを
六十年なほ忘れ難かり
平成17年(2005)作
冊子「空襲の時代を生きて 岩国空襲の体験
岩国空襲を語り継ぐ会」96-99ページより
岩国空襲の概要
岩国空襲は、敗戦の年の昭和20(1945)年の春から夏にかけて九度以上に及び、千数百人の尊い生命と多くの家屋、財産を失った。その惨状は目を覆うものがあり、あまりにも酷いその日の出来事は、64年たった今日でも昨日のように、多くの人々のあいだで深い悲しみをもって語られている。
空襲でもっとも早いのは3月19日で、岩国沖の船舶や藤生駅、通津、由宇一帯の民家、農作業中の農夫などに対する艦載機グラマンの攻撃であった。そのため国鉄職員が死亡し、多くの負傷者がでたが多くは不明である…
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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