動員学徒も殺された空襲 五月十日 陸燃空襲
「私は、その当時、病院関係の従業員と共に、婦長として陸軍燃料廠に勤めていた。5月10日、朝礼がすむと空襲警報がでた。20分したら、警報解除になったので、持ち場に帰った。そのとたんに空襲警報が “ウ―”と鳴った。まもなく、飛行機の爆音が聞こえ、兵隊さんが“敵機だ、一番近い壕に入れ”と叫んだ。救急カバンをさげて診療所から一番近い壕へ飛び込んだ。入院患者が40名くらいいたが、避難させる暇もなかった。その防空壕は、廠内で最も立派な壕といわれ、30㌢位の厚さの鉄板でできていた」「爆弾の音が5、6回もしたとき、動員学徒のY君が真っ青になって転がり込んできた。Y君は片手上膊が三分の二以上離れ、わずか3㌢位の皮でついてぶらさがっていた。すぐ三角筋をだし、止血してその子を横抱きにした。その時に、壕の横に250㌔爆弾が落ちて、バリーという音とともに壕の鉄筋が網の目のように壊れてしまった。もうここにいては危険と思い、Y君を横抱きにして外にでた。外の様子はすっかり変わり、爆風と砂煙で、なかなか思うようににげられなかった。装束の田んぼを横切り、山に逃げた。そこには陸燃の人達がたくさん避難してこられた」「それから、再び、陸燃の方に引き返し、患者の救護にあたった。廠内の負傷した人は応急処置をして、夕方までに、和木小学校につれていった」
(竹中信子・当時陸燃病院勤務)
「そのうち動員学徒で陸軍燃料廠ではたらくようになった。5月10日、朝の点呼をすませ、仕事にとりかかるときでした。B29の集中爆撃をうけ、近くにいた友だち5人と防空壕に入りました。我を忘れて泣き出す人、“お母さん”と叫ぶ人、爆発する度に地面が揺れ頭の上から砂がザラザラ落ちてきて、友と身を寄せ合って震えていました。しばらくして人の声に勇気づけられ、外にでてみると黒煙が立ち上がり、方角さだまらず、いわれるままに東門からでてなんども麦畑のなかに避難しながら和木小学校へ逃げました」「やっとのことでたどりついた小学校は、すでに怪我人や死体の収容場所となっていました。頭にガラスの破片が当たり、ぺっとり血のこびりついた友だちの服を洗ったり、怪我人の手当や死者の名前や住所を調べる手伝いもしました。」「この日の空襲で永眠した11人の同級生のことは今も私の脳裏に焼きついています」
(河村幸子、当時燃料動員学徒)
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