(平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)
原爆と岩国空襲
竹中 平一
原爆投下そして終戦から、六十二年が経過しております。あっという間の六十二年、ただ夢の様です。
私が、原爆のキノコ雲が吹き上がるのを見たのは、岩国駅の西の踏切の位置でした。現在の三笠橋の所です。帝人の方に行く大きな踏み切りでした。当時、私は旧国鉄岩国駅に勤務しており、今津の鉄道寮からの出勤途中でした。敵機の襲来等も頻繁に受けている時で、特に気にしないで勤めに就いたのでした。広島にピカドンが落ちて多くの死傷者が出たニュースが伝わって参りました。
徹夜の勤務が終わり翌朝八月七日、貴船君、桂君と三人で広島に救援に行く事になりました。当時は石炭の貨物列車が上下一往復ありましたので、上りの無蓋車石炭の上に便乗したのです。屋根が無いので三人は周りの景色を見ながら、広島も広いがどのあたりに被害を受けたのか等と話しあっていました。廿日市を過ぎる頃から異変が見え始めました。家の瓦やビルのガラス等に被害が目に付きはじめ、その状態は進むにつれて次第に大きくなって行きました。己斐駅近くで列車から降りて市街の見える所に出た時、三人共唖然として言葉を失いました。今まで目に焼きついていたビル街が消えている。見渡す限り焼け野原で白い煙が立ち込める中、ビルの残骸と大木の根元の方が見えるだけです。私達三人は線路の枕木が燻ぶっている線路沿いを歩いて路地に入った所から、想像を絶する地獄絵を見る事になるのです。
全身赤黒く焼けた死体が累々と横たわり、折り重なって足の踏む場も無い状態が延々と続いているのです。三人共今まで経験した事もないこの有り様に、暫く動く事が出来ませんでした。三人は、救護所は無いかと橋を渡り市の中心部にと歩き、道路に散乱している電線や死体の合間を縫う様にして道路を歩きました。道路側の家があった下は防空壕になっていたのか、数十名の折り重なった死体、そんな状態が続いているのです。又防火用水の中には必ず、いろんな形で死体が入っていました。三人は歩くうちに、照りつける暑さと異臭に頭痛を覚えながら、喉の渇きが我慢出来なくなり、水は無いかと歩いておりました。丁度土橋電停のあたりで、手押しポンプがあり、三人はカラカラの喉を潤しました。それから少し歩いた頃、私に鼻血が出てきました。止まらないので友達に、後ろ首を叩いて貰い暫く休んでなんとか血止めできました。元安川を渡る時下を見ると、両岸も死体で埋まっていました。軍の司令部のあった西練兵場の広場には死体が山の様に積まれていました。軍隊の方が死体の整理をしていました。ロープで移動する度に死体の内蔵がでる、顔を背けずには居られない。仮救護所は半壊したビルに設けてありました。其の回りは被災者や肉親探しで大混雑でした。被災者の服は破れ肌の皮が垂れ下がった方、横になっておられる方、意識が朦朧としている方が肉親の名前を呼んだり、息絶えていかれる方など、多くの被災者を前にして私達少年は、何も出来ず真夏の炎天下の下、貴重な取り返しの付かない時間が過ぎて行ったように思います。毎年真夏の太陽が照り始めると、あの惨状が鮮明に浮かんでくるのです。
岩国空襲をうけたのは、終戦前日の八月十四日十一時過ぎ頃でした。当時国鉄の勤務体制は、朝八時から翌日の八時まで二十四時間でした。其の日は徹夜明けで寮に帰らず、北河内の実家に帰るべく岩徳線で西岩国駅で下車し、待合室でバスの来るのを待っていました。お客は七名ばかりいて十一時過ぎ頃空襲警報がなり、全員駅前の防空壕に走って入りました。入ったと同時に上空に轟音が聞こえ、何十機というB29が駅の方に飛んでいき、暫くすると爆弾投下の大音響と共に、防空壕は揺り籠の如く振動しました。其の日は岩国と光工廠の二カ所が目標だった。B29は、旋回しては爆弾投下したので飛行機の轟音と爆弾の大音響は暫く続きました。大変長く感じたが、三十分位でしょうか一変静かに成りました。皆不安を感じながら壕からでたのです。
その時空から長い紙のような物が落ちてきました。その時誰か駅の方に爆弾が落ちたらしいというので、私は歩いてすぐに駅方向に向いました。駅まではるか向こうの位置なのに、あたり一面田んぼのように泥の海であり、直径三メートルから五メートルで、深さ二メートルの爆弾の穴が、駅周辺から人絹町の田んぼにかけて開いている。岩徳の客車が三分の一が泥に埋まっている。丁度下りの貨物列車が止まっており、一面に馬が積んであったのが無残な状況でありました。泥に埋まった被災者の方も数人おられたようだが、駅員の方々が心配でありました。室の木の山の方に避難されたと聞いたが、その日はそれ以上の事は分からず家に帰りました。後になってわかったのは駅の方も多数なくなられたと聞きました。それから後片付けに入るのですが、翌日は無条件降伏で終戦となりました。
日本は今後どうなるのかと不安の中で、又いろんなデマが飛び交うなかで私達は、毎日官舎の遺体掘りそして焼却してはダビに送りました。その後しばらくしてから、外地からの引き揚げが始まり、毎日一本下りの専用列車が運転されました。列車は超満員でデッキにぶら下がった状態でありました。岩国駅にも三人、四人と降りる方が居られましたが、通路からは出られず窓から降りていました。進駐軍が来て駅前に事務所が出来ました。ある日、米軍将校が岩国に来るのでホームには出ないようにと指令が出ました。私達が窓から見たの天皇陛下専用の御召列車でした。機関車はC59で車体は小豆色、七両編成で最後に展望車が着いていました。車体の真ん中にあった黄金の菊の御紋が車体の同じ色に塗られていました。戦争に負けた事がくやしくてなりませんでした。
私達の少年時代は戦争の真っ只中です。そして戦後の混乱と日本の運命が大きく変わった時であり、楽しい思い出はありません。しかし苦しくてもお互いが助け合って生きて来た事は、貴重な思い出として、人生の一ページの中に深く留めて居ります。そして平和の大切さを改めて感じております。
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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