基地よりも住民、兵隊を狙い撃ち
八月九日航空隊空襲
「あれは、たしか八月九日正午直後だったと思う。栗原飛長と私は、いつもの零戦掩体壕で“お前たち二人は、他の班員より二〇分早く昼食をすまし、対空見張りの交替に立て”との命令をうけた。見張りに立った途端、基地の沖合にある甲島方面より太陽を背にした爆音が聞こえる、栗原飛長と私はバケツを連打し敵襲来襲を叫んだが、はや、シューと爆弾落下の音。食事に帰る将兵めがけて、無数の黒い物体が降ってくる。栗原が破片で顔をやられて、コの字形無蓋掩体壕(土製)の中にとびこむ。私もころがるようにして飛び込み地べたへへばりつく。大地を揺るがす轟音。“ド、ド、ド、ドッ、ドカーン”ときれ目のない炸裂音の連続。土製掩体壕の堤は爆弾の破片はさえぎってくれるが柱とも石ともわからぬものが降ってくる」「静かになった。壕の外へ出る。壕のそばにあった仮設通信室が吹っ飛んであとかたもない。時計のついた手首、腹わたの飛びだしたむごたらしい体。血!血!まさに地獄絵である。修羅場である。われわれの食事していたあの掩体壕が直撃弾をうけた。あの掩体壕では、確か二ヶ班、三〇名がいっしょに食事をしていた。掩体壕はピラミッド体操の崩れおちのごとく、完全に崩壊されていた。」「しかし、なかなか救出できない。コンクリートの下でうめき声は聞こえるが思うにまかせない。そのうち夏の長い日も暮れてしまい救出打ち切り。万事終わりである。六日後無条件降伏。コンクリート塊の下敷きの遺体はどうなっただろう。敗戦のどさくさとはいいながら、岩国空襲の犠牲者に本当にすまぬと思う」
(大村 泰、当時岩国航空隊・予科練)
「実家は車町三丁目です。航空隊被爆当時、私は八歳でした。家の近くに頑丈な掩体壕三個とバラック建ての徴用工員用兵舎が建ちました。私たち子供は、縁故疎開し、八月九日の、あの航空隊集中爆撃の日、私の家は両親だけでした。」「初めの空襲警報で両親はともに退避した。解除になったので、母は風呂場へ洗濯にいき、二度目の警報がわからなかったので、父が大声で叫びにきて、防空壕にいれた。その途端、耳をつんざく様な爆弾の落下音で家は傾き、屋根・天井・壁は爆風で飛び散りました。ちょうど、その時も徴用の兵隊さんがきていて、一度は家の防空壕にはいったのですが、止めるのも聞き入れず壕から飛びだして兵舎の方へ走りました。その兵隊さんはやっぱり死亡されたそうです」「近所の方に聞いた話も総合しますと、八月九日、昼頃、百機位飛んできて、掩体壕の中に、日本の飛行機を一機納め終わったのを見ていたかの様に、ねらい撃ちしました。搭乗員は逃げたのですが、壕にいた整備兵たちは、大勢死にました。多谷本さん、福屋さんの家は爆風で倒れました。山形さんの納屋その他火災をおこした家もあります。屋根は吹き飛び、壁は落ち、戸板も飛び散りました。みんな着のみ着のまま逃げて親戚知己をたよりました。男の人や兵隊さんたちは爆撃のすんだ後、戸板で、怪我人を運んだり、救急医療を施し、できるだけ助けたのですが、ひどく壊れた掩体壕の下からは、“お母さん! お母さーん”“助けてくださーい”などと声は聞こえるのにどうすることもできませんでした。」
(石井 美津子談、当時八歳)
「岩国航空隊の勤労奉仕隊が編成され、私はその一員として参加していました。八月九日、今津川にかかっている一銭橋(今の連帆橋)の川下側堤防のほとりを、五〇名の奉仕隊の人達とともに歩いていたとき、米軍艦載機が飛来し、私どもの隊に、機関銃を乱射しました。私どもは、堤防の北側に避難しました。その時、乱射した機関銃の破片が、私の右手間接上部に貫通銃創し、さらに右足も貫銃創しました。そして、堤防下の今津川に転落しましたが、川辺の杭に左手でつかまり、難をのがれました。そのうち隊の人達が二〇名ばかりこられ、私を救出してくださいました。」
(有田 ミサヲ、当時勤労奉仕隊)
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11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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