子供、農・漁民を狙った 柱島空襲
森脇 政保 当時国民学校六年
柱島群島は、広島湾のほぼ中央あたりにある十二の島から成り立っている美しい人情の厚いところです。十二の島のうち、柱島、端島、黒島三島が有人島で、他の九つの島は無人島です。三島にはそれぞれ小学校、中学校、その分校がありますが、過疎化が進んで、現在は人口も四分の一にまで減り、児童、生徒も一人から三人といった状況になっています。
その中で一番大きい柱島は、どちらの方角から見ても、三角形をした島で、瀬戸の小富士と呼ばれていました。のちに空襲の時期は、いつも決まったように、米軍機は豊後水道から進入して、三角形の柱島から分かれて広島湾一帯を爆撃していたということでした。
私はこの柱島で、昭和八年(一九三三)に医者の子として生まれました。一九三三年といえば、アジア、太平洋を戦場とした十五年戦争がすでに始まっており、日本は国際連盟を脱退し、戦時色も次第に強まり、言論の自由もなくなり。戦争に反対する人々が次々に逮捕投獄されるなど弾圧が酷くなっていた時でした。
私は昭和十五年に、柱島小学校に入学しましたが、翌年の小学二年生の時、日本は米英とたたかう太平洋戦争に突入しました。学校名も柱島小学校から柱島国民学校となり、教科書も一層戦争を賛美するものになっていきました。こうして私は、柱島国民学校の生徒として、広島湾の小島で戦争を体験することになりました。
戦争も末期になると、日本の制空権、制海権は奪われ、戦う力も失って、ただ敗戦の日を待つだけの状況でした。それでも私たちは、「欲しがりません、勝つまでは」「日本は神国、必ず神風が吹く」ことを固く信じて、必死に頑張っていました。
当時、日本の若者は、大学生も含めてその多くは召集されて、戦場に駆り出されていました。中学生、女学生も国内の軍需工場などに動員されて働いていました。だから郷里にのこっているのは、女、年寄り、病弱な人、子どもたちだけでした。学校も若い男先生は次々に召集されて、校長先生、教頭先生のほかはほとんどが女先生でした。私の兄も親の反対を押し切って鹿児島の予科練(海軍航空隊予科練習生)に入隊しましたし、次の兄も師範学校から名古屋の軍需工場に動員されていました。
父をはやくなくした母は、毎日朝晩必ず仏壇の前に長い間坐って、子どもの無事を祈りつづけていました。そして、看護婦の仕事の合間を縫って、二人の子ども宛てに手紙を頻繁に書いていました。私も催促されて度々書きました。
当時、食糧が不足していたので食糧増産が奨励され、空地や荒地、運動場の周辺も耕して、サツマイモやカボチャなどを植え収穫していました。五年生、六年生は勤労奉仕で、男手のたりない家に、春すぎには麦刈り、秋には稲刈り、肥やしや牛の餌にする草刈りなどをしました。航空機の燃料にするということで、毎日松脂を採りに山に通いました。松の木に傷をつけてそこから流れる松脂を竹筒に受けるのです。また、戦地の兵隊さんに慰問袋をつくって贈りました。それには必ず兵隊さんへの感謝の気持ちと私たちも兵隊さんに負けず銃後で頑張る決意の手紙を添えていました。
その当時も私たちの履物は、藁草履でしたが、自分で藁を打って草履を作ってはきました。毎日の食事は、私の家では芋粥、昼は“いりこ味噌”をおかずにした日の丸弁当、夜は麦ご飯、芋ご飯でしたが、海でギザミなど小魚を釣ってきては、七輪で焼いておかずにしました。大潮の時には、タコ、サザエ、ナマコ、ニイナなどを採って食べました。お八つは、サツマイモ、竹の皮に包んだ梅干、いりこ、麦粉を熱い湯で溶いて食べる香煎などでしたが、唐柿、山桃、椎の実、山苺などを採って食べました。島には密柑、橙、枇杷。柿など果物がいろいろあって、海や山の幸に恵まれた島の生活は、都会の食糧難とちがって幸せでした。
戦争もいよいよ末期になると、数百万人の若者を戦場に駆出しても、まだ兵隊が足りないといって、四十代の男性も第二国民兵として召集されていきました。出征兵士を見送るために、私たち小学生は全員いつも軍歌を歌いながら船着場まで行進しました。大太鼓、小太鼓を先頭に各自が日の丸の小旗を持って並んで島の細い坂道を下りました。歌う軍歌はたいてい次の歌でした。
♪ 勝って来るぞと勇ましく
誓って国を出たからは、
手柄たてずに死なりょうか、
進軍ラッパを聞くたびに、
瞼に浮かぶ旗の波 ♪
港では壮行会がおこなわれます。まず最初に数人の人が激励の挨拶をおこないます。それはたいてい時局多難の時に、召集されたことを称え、励ますものでした。そのあと出征される方が、見送りにきた人々にお礼と決意をのべるのでした。そして最後にバンザイ三唱がおこなわれました。
その日はいつだっかのか記憶にありませんが、出征される方が次のような挨拶をされました。「体の弱い母一人のこして参ります。そのことだけが心配であります。みなさんよろしくお願いいたします」と言われて、急にポロポロと涙を流して泣かれました。すると突然、前列の一番端におられた教頭先生が、「この不忠者が…」と言って近くにあったピンポン玉ぐらいの小石を出征兵士の近くに投げつけられました。おそらく先生は「大君(天皇陛下)のご命令で戦地に赴くのに、日本男子が涙を流すとは何事か。この不心得者が」といった心情であっただろう。私たちは一瞬ビクッと体に緊張が走り、何とも表現できない複雑な気持ちになったことを覚えています。壮行会が終わり、出征される方をのせた舟が小さくそして見えなくなると、見送りにきた人たちは三三五五家路につきます。帰り道、年配の女性の方数人が「親一人子一人じゃけーのー」「後ろ髪をひかれる思いよのー」と小声で話されているのを聞きました。
柱島の裏の海には、海軍の艦船が停泊していたこともあって、きれいな砂浜のある島の裏の海では、海軍の酷しい訓練-水泳やボートを漕ぐ訓練がしばしばおこなわれていました。海を知らない、泳ぎのできない四十代の東北出身の人が召集され、海軍に配属されて水泳の特訓をうけていました。特訓というのは二十代の若い下士官が、自分のお父さんのような人を容赦なく船から海へ次々と突き落とす。泳げないからアップアップしながらそれでも必死に下手な犬かきでようやくボートにたどり着くと、今度はボートの櫂で突き放して沈める。その度に海水を飲み込む。これの繰り返しで最後に力尽きて亡くなった人を島の人は何人もみてきました。「かわいそうにのー」といって、その時の状況を話されているのを私は何度か聞きました。こうして命を失った兵士も家族には「名誉の戦死」として公報が届けられていたということでした。
昭和二十年になると、米軍機による空襲が毎日のように全国の都市を襲いました。三月十日の東京の大空襲では一夜のうちに十万以上の人が焼き殺されました。それも逃げることができないように、街の外側から焼夷弾を投下して街全体を火の海にする皆殺しにするやり方でした。こうした空襲で全国百五十都市で五十万の人が亡くなったといわれています。岩国もその年の春から夏にかけて九回を超える空襲がありました。
私の住んでいた柱島三島が、艦載機グラマンに襲われたのは、七月二十四日でした。最初に襲われ、もっとも悲惨だったのは、戸数わずか二十一軒の黒島でした。午前八時頃、グラマンが突如島上空に姿をあらわしました。その時小学五年生、六年生は松脂を採るために山に入っていました。学校にいた一年生から四年生は、先生の指示をうけて、中央防空壕に急いで避難しているところでした。それを見た米軍機は島を一回転して、児童が入った防空壕めがけて二百五十キロ爆弾を投下したのです。そのため全員が生き埋めとなって、子ども十五人、大人四人の命が奪われ三人が負傷しました。遺体を掘り出すのも空襲の合間をみて作業を続けるため、最初のうちは爆弾で押しつぶされた壕のなかで、「おかーちゃん」「たすけて」と泣き叫ぶ声がかすかに聞こえていたが、その声も絶え、その日の午後九時ごろ最後の子どもを発見したといわれています。遺体は次々と学校にはこばれ、教室内に全遺体を並べ終えた時には、余りの悲惨さにもはや親の目に涙一滴も出る余地はなかったといわれています。
つづいて昼前、米艦載機グラマンは端島を襲いました。丁度この日は旧暦の六月十七日宮島の管弦祭の日で、島では集落の中央にある集会所で、精一杯のご馳走をみんなで持ち寄って、お祈りをすまして歓談をしていました。グラマンはその頭上に二百五十キロ爆弾を投下しました。そのため、子ども六人、大人三人の命が即座に奪われ、三人が大怪我をしました。
端島につづいて、柱島が襲われたのは昼すぎでした。三島のなかでも一番大きい柱島では学校や農漁民が狙い撃ちされました。そのため柱島国民学校の校舎は機銃掃射で穴だらけになりました。農作業をしていた農夫は段々畑を右に左に転げ落ちながら逃げまどいました。漁師は海に飛び込んで、舟の周囲をぐるぐる廻って銃弾をのがれました。私も狙い撃ちされましたが、弾は頭上をかすめて後ろの家屋を壊しました。機銃掃射のとき、米兵パイロットは「ニヤニヤ」と笑っていました。
米軍機による岩国空襲は、九回に及び、千数百人の尊い命が奪われましたが、なかでも柱島三島の空襲は、子どもや学校をねらった空襲として決して忘れることはできません。決して許されるべきではありません。戦後しばらくたって、戦地から復員され教師となられた人は「ニヤニヤ」笑いながら子どもや農・漁夫を追いかけまわし、狙い撃ちする柱島空襲の話を聞いて「これはもはや戦争ではない。戦争ゲームだ」といわれました。
八月六日、学校の運動場で広島に投下された原爆の光と音ときのこ雲を見ました。この原爆で私は腹ちがいの二人の姉を失いましたが、柱島にも船に乗せられて、被爆された人が一人、二人と痛ましい姿で帰ってこられました。帰ってこられた被爆者は蚊帳のなかに横たわり、呻きながら体の傷のなかから湧いてくるウジ虫を箸でとってもらい、団扇で身内の人にあおいでもらっている姿を見ました。そして、間もなく葬式がおこなわれました。
戦争が終わって間もない頃、島の人たちのなかで「幽霊が出る」「幽霊が出る」という噂がもちあがりました。海の底では「ドン、ドン」「ドン、ドン」と盆踊りのときに打ち鳴らす太鼓の音がかすかに聞こえる。そのことを島の人たちは海太鼓といっていました。日が暮れて農作業から帰るとき、後ろから足音だけがいつまでも追いかけてくる。そうした話が島中で語られるようになりました。
これは戦争のために、ものいうこともできず、惨たらしく殺されていった人たちの霊魂が彷徨っているのだということになって、信仰の厚い島の人たちは、島の裏の砂浜でお寺さんを呼んでお経を上げ、村を上げての盛大な慰霊盆踊り大会が行われました。おそらく島の人たちは、余りにも惨たらしく殺されていった多くの人たちの姿が脳裏に焼きついてはなれなかったのだと思います。
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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