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岩国空襲体験談 「忘れえぬ我が人生」 藤本 ミサ子

 (平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)

忘れえぬ我が人生

 

藤本 ミサ子

 

 戦争も益々厳しい状況になり、二〇才になった兄も大竹の海兵団に入隊することになりました。入隊する前日、和木にあった陸軍燃料廠が米軍の空襲によって周辺一帯は火の海のようでした。島からその様子が丸見えだったので、翌日岩国に渡れるだろうかと心配しましたが、何とか渡れるということで、親戚のおじさんに船を出していただいて岩国にむかいました。途中船のわずか一㍍のところで、アメリカが落とした機雷が爆発しました。私たちはもう少しのところで船もろとも全滅する所でした。

 岩国駅に着いたものの大竹海兵団に入隊される方がたくさんおられて、見送りのものは切符が買えなくて、兄と一緒に汽車に乗ることは出来ませんでした。ひと汽車遅れて大竹に着きましたが、すでに兄の姿はなく逢うことが出来ませんでした。

 しばらくすると大勢の隊員さんが元気よく並んで出勤されました。父と私は、その中に居る兄の姿をもう一度見ようと一生懸命さがしましたが、見つけることはできませんでした。

 仕方なく諦め、父が岩国まで歩いて帰ろうと言うので、大竹から岩国まで歩きました。その当時は、そのあたりには今のように建物はなく、ほとんど畑でしたが、昨日の大空襲による爆弾の大きな穴があちこちにあって、歩くのも大変な状況でした。その中で入口にムシロがぶら下げてある小屋が、何カ所かありました。その中をそっと覗いて見ると、それは目を覆いたくなるような悲惨なものでした。人の体があれほど痛んでいるのを見るのは初めてでした。黒焦げの、手足がとれ顔さえ見分けのつかない遺体、それが山のように積まれていました。その光景は普通の神経ではその場に立っていることさえ出来ない悲惨なものでした。出征する兄を見送ったばかりで、その姿が重なってとても辛かったです。亡くなられた家族の事を考えると、たまらない気持になりました。下関の長府で働いていた人は「もう長府に行きたくない」と言われたので、私たちと一緒に島に帰りました。

女子挺身隊(帝人製機)の時の筆者(左)と友人
女子挺身隊(帝人製機)の時の筆者(左)と友人

 兄を送り島に帰るとただちに、女子挺身隊として帝人製機に帰りました。父は兄もいないので私を止めましたが、「お国のために」の思いで、それを振り切って復帰しました。

 帝人製機では寄宿舎生活でした。仕事は飛行機の仕上げの最終作業でしたが、入社して一ヵ月は養成所で厳しい訓練を受けました。

 「神風」の鉢巻を締め、胸には輝く日の丸を描いて、ドリルを握り、ハンマーを持って手に血がにじみ出る痛い思いをしながらも、どんなに苦しくとも役目を立派に果たすために精一杯働き続けました。戦争はさらに厳しくなり、空襲のため毎日防空壕に走り続けながら頑張りました。

 そうした緊張した日々のなかではありましたが、まさか黒島が空襲をうけ、多くの子供たちが犠牲になっていたとは想像もしませんでした。ある日、七月二十四日の黒島空襲の翌日か翌々日か、会社の上司から「黒島が米軍機による空襲をうけ、大変なことになっている。弟さんも亡くなられた」と告げられました。その瞬間、私は気が動転し、体の震えが止まりませんでした。

 しかし、すぐ島に帰ろうにも定期便もなく、帰る手立てはありませんでした。その時、ふいと頭に浮かんだのが、名前も住所さえわからないが、父の知り合いの人が由宇の有家におられることを思い出し、信じられないような行動にでました。有家を一軒一軒訪ね歩き、やっとのことで父の知り合いの人に巡りあうことができました。事情を話し、二人で伝馬船で、昼はグラマンの奇襲があるので、夜を待って、櫓を漕いで島に渡ることにしました。私とおじさんが交代で一生懸命漕ぎに漕いでようやく島に着きました。二時間余りかかったような気がします。

 島に着くと、まず爆弾で崩れ落ちた防空壕に行き、その光景を見たとき、目の前が真っ白になり言葉も出ませんでした。この中に小学校一年から四年までの生徒が生き埋めにされた。小二の私の弟もその中にいた。遺体を掘り出すのも空襲の合間をみて作業を続け、全員掘り出して小学校の講堂に十九人の遺体を並べ終えた時には、あまりの悲惨さに親の目にも涙一滴出る余地はなかったという、そうした話を聞いて、私は泣き崩れました。暗い防空壕の中で、つぶされたもの、少しは隙間があったのだろうか。泣きわめく事もできたのだろうか、お腹も空いていたのでは。「お母さん」「お父さん」と叫び淋しかったのではといろいろ想像し思い浮かべては泣きました。そう思うことで、自分の胸のうちで叫びました。

 

黒島の供養塔。死者全員の名を刻む
黒島の供養塔。死者全員の名を刻む

 大竹まで兄を見送って間もなくのことであり、まさか父も我が子があの時見たような姿になろうとは考えてもみなかったと思います。戦争の恐ろしさを肌で感じました。私はその時、会社には戻るまい、島に残って親孝行しようと心に決めました。最初反対していた父は、今度は「早く会社に戻れ」とひどく叱るように言いましたが、亡き弟の傍らを離れたくない気持ちもあり父を説得して島で暮らすことになりました。しかし、何も手につきません。生きているだけの状態でした。

 八月十五日、日本敗戦のニュースが流されました。それから何もかも変わりました。兄が帰ってきました。父は病弱の母を守って兄と私をつれて、漁業にそれそこ精一杯働き続けました。それは、亡くなった弟三郎の悲しみに耐えそれをのりこえるための必死のたたかいであったように私には思われました。兄も私も一生懸命働きました。

 ところが、それも束の間、わが家にふたたび悲劇が襲ってきました。昨日まで元気で働いていた父が急に様子がおかしくなり、夜中急遽船を出して、大島の久賀の病院へ急ぎました。母と兄と私と弟が乗って、もっと早く走ってくれないかと祈る思いで久賀父親がわりとなってくれた兄も七十才で亡くなりました。病気がちだった母も早くなくなり、今は弟と妹の三人になりました。私はお陰さまで、この年になりましたが元気でいろいろの分野で、皆様に力添えをいただきながら頑張っています。みんなが守ってくれているのでと感謝しています。大きな声でありがとう、これからも見守ってくださいと叫びたい気持ちで一杯です。

 私は何の罪もない子どもたちを無惨に殺戮したアメリカを恨みます。そしてあの忌まわしい戦争を二度とひきおこしてはならないと強く思います。戦争体験者が年々少なくなるなかで体験を若い世代に語り伝えることは私たちの大切な責務だと思い、頑張っていきたいと思います。

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 原爆と戦争展のご報告

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期間:2024年8月20日~28日

ところ:山口県岩国市中央図書館 展示室

戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。 

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