(平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)
戦中体験の「風化」を許すまじ
河本 武司
♪ 天に代わりて不義をうつ
忠勇無壮のわが兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ!いで立つ父母の国
勝たずば生きて帰らじと
誓うこころの勇ましさ ♪
昭和四年に美川町河山で生まれ「八十路」に入った。最近ふとこんな歌を口ずさむ事がある。私にとっても、青春時代は今も大きな悲しみを背負っているからであろうか。
昭和四年は、その後アジア、太平洋を戦場とした十五年戦争へと突きすすんでいった世界恐慌の年であった。
小学校に入学した昭和十二年(一九三七)は、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入した。そのころ修身の教科書には、最初のページに、神武天皇の大和征伐で、金の鳩が弓に止まっている挿絵があった。その翌年の昭和十三年には国家総動員法が公布され、それ以来「欲しがりません、勝つまでは」の精神で軍国少年として成長していった。
私は七人兄弟の四男で、長兄、次男は子どもの頃に亡くなった。三男の兄は高等科を卒業すると海軍通信兵に志願し、掃海艇や水雷艇で中国沿海州から東南アジア方面で斗い、当初二、三度本国に帰国し休暇で帰宅、戦況報告を熱中して聴いたことを今でも憶えている。戦争は両者が「人殺しを競い合うもの」と位置づけられるが、その頃は兄の勇者ぶりにひきつけられたものである。
兄の海軍入団と同時に、わが家の五反百姓は、私にその歯車の一部が回ってきた。役牛が一頭いたが、夜食べる六束の草の準備が、兄から小学五年の私の責任となった。同時に風呂たきもあり、宿題は風呂のたき口ですることが多かった。国家騒動員法は、わが家にも総動員態勢をもちこんだのである。
昭和十六年太平洋戦争に突入し、尋常高等小学校は国民学校に名称を改められた。この頃になると、私の住んでいた田舎からも出征兵士があり、戦死者も急増しその都度学童全員は動員された。応召される出征兵士を私たちは、日の丸の小旗をうち振り、遠くまで見える河山も吊橋錦雲橋の上から軍歌を唄い続けて見送った記憶が今でも鮮やかに残っている。
♪ わが大君(天皇)に召されたる
生命栄ある朝ぼらけ
称えて送る一億の
歓呼は高く 天をつく
いざ征け兵 日本男児 ♪
ところが数ヶ月すると、白木(桐)の箱(遺骨又は遺品)を抱いた戦死者の遺族を出迎える。送るときとはちがって隊列を縦に長く、小旗の先に黒布を当て胸に構えて、学校のグランドで催される「村葬」に参列する。水をうったような静けさの中で行われたように記憶している。
昭和十八年国民学校高等科を卒業するとき、担任の先生に勧められて山口師範学校に進学をすることになり、父親と一緒に入学式に出席した。全校生六百人の全寮制の門を潜る。身長百五十センチに満たない小柄な田舎者にとっては、何もかもが新しい体験で、上級生と下級生との壁は厚く、言葉づかい、礼儀作法その他すべてが軍国調で、各部屋は各学年二人の十二人で構成されていた。寮生活の日課は厳しく、慣れるまでよく我慢できたものと、今思い出しても冷や汗ものであった。
入学して一年の一、二学期こそ学校の農園作業以外は教室で学習に打ち込むことができたが、上級生たちは幹部候補生に志願する者、また最上級生は卒業が短縮されるなど学校自体の模様が急速に変わっていった。
そのうちに、われわれにも次々と「学徒動員令」が下ることとなった。初体験は熊毛の三丘で農家の田圃の排水をよくする側溝掘りに雑木を埋める作業であった。農家に民宿しての仕事で、食事もよく、寮生活とは打って変わった生活に満足したものであった。
二度目は、岩国への動員で、いま問題の愛宕山の下にゼロ戦と呼ばれていた最新鋭戦闘機の格納庫造りの穴掘りに従事したのを覚えている。多くの朝鮮人が動員され酷使されていた。どれだけの期間だったか記憶は定かではないが大変な重労働であった。
三度目の動員は大砲をつくる大阪造兵廠だった。二年目の二学期の終わり十月~十一月頃だった。一級上の学年と一緒に小郡駅から上りの列車に乗り込み、夜明け頃大阪駅に着いた。あらかじめ、寮のなかにある私物を倉庫に整理するよう指示されたので、かなり長期の学徒動員だと予測はできたがまさか大阪とは予想できなかった。どこをどう回ったか、全く分からないまま下車したのが片町線(四条畷行き)の鴻池新田駅、周辺は田畑もあったが多くの寮が建てられ、動員学徒を収容する舞台ができていた。翌日、電車で運ばれて大阪城周辺の大工場群、陸軍造兵廠に隊列を整えて入る。われわれは、大砲造りの第七工場に配属された。
ベルトで回す旋盤から動力の六尺旋盤、さらに大砲の砲身づくりの超大型の旋盤にいたるまで並んだなかを、工員さんが真剣に立ち働いていた。班長さんの挨拶と指導をうけたのち、技術担当の工員さんから、直接指導を受けた。ところがそれから一ヶ月も経たないうちに、若い工員さんたちは工場から姿が消えた。前線に従軍されたように感じた。
仕事はネジ切りとナット作りで六尺旋盤を担当した。与えられた図面をみて、一日のノルマを消化していくので、要領を憶えると出来上がったネジを見て自ら満足したり、時には失敗を繰り返す日もあった。しばらくすると夜間勤務が始まり、一週間交代の勤務となった。
夜間は必ずといってよい程、B29による超高空からの偵察飛行があり、サイレンが鳴る。一、二機だから偵察主任務だと思われるが、時には爆弾一、二個を落とすこともあった。そうした時班長さんから避難命令、六尺旋盤台の下の一人用の「防空壕」に身を隠した。工場外には大型の防空壕と防火用水槽も備えられていたので今考えれば人命軽視もはなはだしいといえる。
その後、女子挺身隊や女学生が工場に動員されてきた。多くの男子工員が工場から姿を消すと、それに代わって女子の挺身隊がその役割を担うことになった。まさに国家総動員体制である。
そうしたなかで迎えた昭和二十年三月十日、この日の夜は一夜にして十数万人が焼き殺された東京大空襲。これを契機に大阪、神戸と相次いで焼夷弾攻撃にさらされた。
その日は夜勤で一番眠気がさし、足元を固めたゲートルの下で、寮で蔓延していたシラミが這いはじめる丁度その頃、B29八十機の大編隊が大阪を襲った。サイレンと同時に退避の指示にもとづいて、直ちに工場外に在る防空壕へ避難すると間もなく焼夷弾の投下が始まった。
外が明るくなったので壕から出てみると、一発の焼夷弾が空中で炸裂すると四十から五十個だろうか油脂のつまった小型の焼夷弾に分裂、その一つ一つが尾の部分に火がついたまま広い範囲に落下する。それはまさに花火のような光景である。
その晩、八十数機から落とされた焼夷弾の数は解らないが、翌朝工場を出て駅に向かう途中見た大阪の街は、ことごとく焼け爛れて、火のついた荷物を大八車にのせ、狂ったように駆け出していく人、髪を焼かれて泣き叫ぶ女性、子どもの名を狂ったように叫ぶ親たちなど修羅の巷と化していた。今もあの記憶は鮮明に残っている。
それから十日ばかり経って、郊外にある住吉区の叔母の家を訪ねると、家の前の道路に叔母家の屋根を打ち抜いた大型焼夷弾の尻っ尾の部分が放置されていた。
大阪空襲から間もない頃、大阪造兵廠の動員は解除になり、山口県内に帰り、今度は長門の湯本の近くへ四度目の動員として派遣されることとなった。そこで聞いた情報によると、そのご大阪の陸軍造兵廠は、B29の爆弾攻撃によって全滅したということであった。われわれにとっては九死に一生を得たことになったが、工場で働いていた多くの女子挺身隊や女学生たちは、おそらく工場や機械もろとも吹き飛ばされたのではと思いたくないが不吉な予感が頭をよきったものである。
長門の湯本の動員は湯本温泉の近くの山の中腹に、横穴を掘る作業であった。日本海側からの敵の上陸に備えて避難又は攻撃の隠れ場所を作るというもので、陸軍の兵隊一人が指導にあたっていた。爆薬を仕掛けて爆破させては奥へ奥へと掘り進んだ。
湯本の動員期間は約一ヶ月ぐらいの短いものであったが重労働であった。そのためか、敗戦前に肋膜を患い、一時、動員の戦列を離れ、のちに動員を免除されることになった。動員免除の理由は病気ではなく次のような理由によるものだった。
岩国第十一空廠から大阪の造兵廠へ動員される前、短期の帰省が許され、西岩国駅で省営バスを待っていると、十人ばかりの陸軍航空兵に出会った。訪ねてみると、「陸軍幹部候補生」であった。その航空兵の服装たるや、軍国少年の私の心を強く引きつけ、いやが上にも憧憬の的となった。
郷里に帰ると早速、親の印鑑を黙って使用し、村役場の窓口に「陸軍幹部候補生」志願の手続きをした。そして大阪に向かった。その後、一次試験を動員中にもかかわらず、柳井まで帰って受験し、第二次試験は京都市図書館で受けた。
終戦間際の長門・湯本の動員中に合格通知と昭和二十年十月一日、兵庫県加古川航空隊入隊の通知を受けとった。そのために動員が免除になって、五番目の動員先であった下関市長府工場への派遣は免除され、帰郷して八月十五日の敗戦を迎えることとなった。長い長い学徒動員の旅枕であった。
昭和二十年九月半ば、師範学校に復帰すると、以前のような規律、規範もなく自由奔放。厳しい規律の中で鍛えられたであろう軍隊帰りも動員学徒らも、同じ線上に並んで好き放題の体たらくであった。
幸い入学三年目にして無事進級した昭和二十二年五月、突然父から「スグカエレ」の電報を受け取った。不吉な予感が胸を刺す。担任の許可を得て夕刻帰宅してみると、両親は仏壇の前に黙然と坐し、母の膝の上には、白布で覆われた白木の箱が置かれていった。兄の戦死である。終日兄の死を悲しみ、藁にもすがりたい思いであったと、再三母の口から聞いた。
白木の箱(杉の板)には、兄の霊の名前と海軍の階級、戦士の期日(昭和二十年五月)、場所はマライ東方海岸と書かれた一枚の紙、ただそれだけのものであった。朝から泣き通したであろう父母の思いは察するには余りあるものがあった。
♪ 海ゆかば 水づくかばね(屍)
山ゆかば 草むすかばね
大君の辺にこそ 死なめ
省みませじ ♪
年をとると共に、戦前戦中とあの戦後を思い出す。同時にこの歌を口づさみ、大男で頑丈な兄、努力家の兄をいまでも想い出す。私の教職四十年と重ね合わせて、戦争をどう教え子らに受けとめさせたか思念にかられる。
母は早逝だったが戦死した兄を語らぬ日はなく、豪胆だった子供の頃からの兄の行動をほめそやしていた。その兄は歌のようにマレーシア半島東部海岸に今も眠っている水づく屍である。決して大君(天皇)の側で戦死したことに悔いを残して語る遺族は今も多いことを語り継ぐべきである。
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