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岩国空襲体験談 「私の戦争体験」 糸井 邦治

 (平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)

私の戦争体験

 

糸井 邦治

 

 私は大正十四年八月十九日に、防府市の大道で生まれた。昭和十五年に国鉄に入社し、小郡駅で改札係をしていた。昭和十八年になると戦況は一段と厳しくなり、男性は次々と召集されて戦地へ送られ、かわって女性があらゆる職場に入って来るようになった。小郡駅にも二十人の女性が入ってきた。そのため自分は駅の旗振りを命じられたが、それをことわると国鉄自動車の運転手になるように言われ岩国にかかわることになった。

 

 岩国では錦帯橋の河川敷に自動車コースがあった。宿舎は千石原で教室は臥龍橋の袂にあって生徒は四十五人いた。午前中教室で習って午後運転の指導を受けた。すべて終わると錦川につかって石鹸で体を洗って帰り、夕食は「白為」食堂で食べた。四十五銭(一般の人は五十銭)だった。この頃岩国の上空では赤トンボがよく飛んでいた。現在の桜の大木はこの時期に植えられた。

 

 自動車学校教習所を卒業し、運転士として昭和十八年九月一日に広島の横川に配属になったが、勤務先は度々かわった。そして昭和十九年五月に光海軍工廠の運輸部門に派遣され、そこで働くようになったが、満二十才になった自分は徴兵検査で甲種合格となった。昭和二十年七月三十一日ついに赤紙(召集)がきて広島工兵隊の自動車部隊に八月十五日入隊通知が届いた。その前日の八月十四日は光と岩国の街が米軍の空襲で破壊された。私は入隊するため八月十五日の二時三十分大道発の列車に乗って広島に向かった。ところが岩国の今津川の鉄橋を渡った所で列車は停止し、全員降ろされて、これから先は歩いて通ることになった。そこで前日の駅前空襲でめちゃめちゃになった岩国駅と穴だらけの街をみた。機関車は頭をやられてひっくり返ったり、田んぼの中に突っ込んだり、レールもひん曲がり、食糧営団の残骸も見た。穴の縁をくねくねしながら歩き破壊された岩国駅を抜けると線路上を大竹駅まで歩いた。

 

 大竹駅から広島駅まで列車に乗っていった。広島は無残にも廃墟となっていた。工兵隊入隊者に大道からきたもう一人の同郷者がいた。彼の姉が北口の饒津神社の傍に家を持っていた。しかし周囲の松の木もみなやられ家も原型をとどめてはいなかった。寝る所がないのでその近くに板を敷いてその上に畳を置いて一晩世話になった。周囲には多くの傷ついた被爆者が横たわっていた。うめき声が一晩中聞こえた。自分は「せんなかろのー」と思った。こうして自分も入市被曝となり、その後いろいろと病気をしてきたが原子病とは認定されなかった。また原爆手帳をとるために県に何度も申請したが受理されなかった。証人を饒津に行って探したが見つからなかった。

 

 戦争も終わった八月十六日入隊受付を国鉄職員ばかりの百八十人と一緒に済ませた。そして八月二十日まで毛布一枚もらって何の目的もなく比治山で宿泊した。二十日になって帰宅が許され、コーリャンと米が半々の飯米を一升と毛布一枚もらって防府の家に帰った。ただちに復職したが結核を患った。昭和二十四年七月二十六日から昭和五十六年まで岩国の西駅で、主に貸切バスの運転士として働いてきた。当時岩国中学校の前に国鉄の宿舎があった。戦後間もない頃、米軍岩国基地滑走路の整備拡張には国鉄職員が大量に動員された。あの戦争で家族のものでなくなったものはいないが、九つ上の従兄弟が中国で戦死した。また妻の兄弟たちが戦死している。

 

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