昭和20年の春から敗戦まで 機雷の投下が始まった
「昭和20年春ごろから、下関は空襲警報の毎日だった。B29など爆撃機が関門海峡にばく大な数の機雷を投下した。磁気機雷で小型内航船でも鉄船はみな沈没した。南部から細江、竹崎、彦島沖と沈没船がひしめき、船員の犠牲者も多かった。地上に落とされた機雷が爆発し、上条付近で犠牲者も出た。下関は、焼夷弾爆撃を受けるまえから、大きな戦禍に見舞われていた」
(南部町 奥野三男)
二度の市街地空襲
「6月29日の下関空襲は先に門司港の倉庫群を中心に市街地へのじゅうたん爆撃をやり、関門港に停泊する船舶が燃えはじめ下関側東部にじゅうたん爆撃を加えた。
米軍の焼夷弾はモロゾフパンと呼ばれ、かごのなかに焼夷弾をつめた六角型の鉄製の管を多数つめたもので、空中でかごが開き、焼夷弾ケースが散らばって落下する。
焼夷弾はあたった建物だけ燃えるのではなく、中心市街地の密集地ではつぎつぎと類焼した。この戦果がひどかった。」
警戒警報解除のあと、油脂をばらまいて
昭和20年(1945年)6月29日と7月2日の未明、米軍機B29が下関を狙って来襲した。市街地の民家を狙った2回にわたる空襲で420トン(7月2日は360トン)の焼夷弾を投下、下関の中心部にあたる市街地108万9000平方メートルを焼きつくした。焼け出された市民は46,000人をこえ、焼かれた建物は10,000戸以上にのぼる。だが、多数にのぼる死者の数などその実態はいまだ明らかではない。
動くものはみな狙われた 低空からの機銃掃射
「艦載機のグラマンも飛んできて、機銃掃射をした。わたしは当時小学校6年で、前田の海で泳いでいたら、グラマンが操縦士が見える低いところからおもしろがって撃ってきた」
(前田 山本勝美)
「各地域ごとの班ごとに、防空壕に逃げていました。アメリカの飛行機が屋根にかかるほど低く飛んできて、機銃掃射をされたこともありました」
(王喜 島田敏江)
「飢餓作戦」の要とされた関門海峡
全国1万個の機雷投下のうち半数を関門海峡に投下
機雷によって日本を海上封鎖するというアメリカの作戦は、「スターベーション」(飢餓作戦)と呼ばれた。米海軍提督ニミッツが米第21爆撃軍団に提案したその眼目は、①日本への原材料および食料の輸入の阻止、②日本軍隊への補給および移動の阻止、③日本内海の海運の崩壊ーの三点にあった。
潜水艦による魚雷攻撃とともに併用されたこの作戦では、とくに九州北部沿岸、大陸との輸送路の要衝となる関門海峡周辺が最大の標的とされた。
米軍による機雷投下の全国分布(日本側調査)
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