岩国空襲
3月19日、4月2日、4月16日、5月4日、5月10日、7月24日、7月28日、8月9日、8月14日
―春から夏にかけて九度以上の空爆―
岩国空襲は全国焦土作戦の一環
アメリカはB29による日本本土空襲を開始。昭和二十年三月十日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて六十七都市の市街地を焼き払う無差別殺りく・焦土作戦を強行した。
岩国空襲は、敗戦の年の昭和20(1945)年の春から夏にかけて九度以上におよび、千数百人の尊い生命と多くの家屋、財産を失った。その惨状は目を覆うものがあり、あままりにも酷いその出来事は、64年(出版当時)たった今日でも昨日のように、多くの人々のあいだで深い悲しみをもって語られている。
空襲でもっとも早いのは3月19日で、岩国沖の船舶や藤生駅、通津、由宇一帯の民家、農作業中の農夫などに対する農夫などに対する艦載機グラマンの攻撃であった。そのため国鉄職員が死亡し、多くの負傷者が出たが多くは不明である。
―岩国陸軍燃料廠・興亜石油麻里布製油所 空爆 5月10日―
つづいて5月10日の午前9時50分ごろ、B29の爆撃機の大編隊は、岩国陸軍燃料廠と隣接する興亜石油麻里布製油所を襲った。陸燃には当時、軍人、軍属、動員学徒約四千人、興亜石油には約二千人が働いていた。この日は、朝いったん空襲警報がでてみんな避難したが、20分後には警報が解除になり、持ち場に帰ったところで、ふたたび空襲警報となり同時に空爆がおこなわれた。
爆撃は20分であったが、集中爆撃により250キロ爆弾二千発以上も投げつけたため、一瞬のうちに全域が炎と黒煙につつまれ、工場は全壊、貯蔵タンクは数日にわたって燃え続けた燃え続けた。この空爆によって、岩国高女11人、安下庄中9人、岩国中1人、岩国工業7人の動員学徒を含む333人亡くなった。
―柱島群島空襲 7月24日―
山口県瀬戸内海に位置する
柱島群島(黒島、端島、柱島)
7月24日には、柱島群島の黒島、端島、柱島三島が襲われ、子どもたち28人が殺され6人が大怪我をした。特に黒島空襲は悲惨であった。防空壕に避難していた下級小学生を見つけたグラマンが壕を直撃し、全員が生き埋めとなり死亡した。その惨たらしい姿は、親たちの激しい悲しみで、涙がすべて出つくしたという。
―愛宕山第一空廠爆撃 7月28日、川下地区爆撃 8月9日―
7月28日には、5月に創設されたばかりの愛宕山の第十一空廠が爆撃され、つづいて長崎に原爆が投下された8月9日、川下にある海軍航空隊が艦載機グラマンによる爆撃をうけた。
米軍機が攻撃したのは、掩体壕(えんたいごう)や民家であった。掩体壕は飛行機を爆弾から守るためのもので、半球の形をして中が空洞になった厚さ30センチ程度のコンクリートや土製であった。
兵士は掩体壕に避難したが、米軍機は多くの掩体壕を直撃弾で破壊し、そこに避難していた多くの整備兵が圧殺死した。
また米軍機は、周辺民家を爆弾と機銃掃射をもって襲った。こうして兵士、飛行場の微用工、勤労動員の婦人、住民240人の命が奪われた。だが滑走路は一部に流れ弾で穴があいたものの無傷でのこした。
―敗戦前日の8月14日に絨毯爆撃―
さらに米軍は、B29爆撃機百余機をもって、敗戦前日の8月14日、岩国駅周辺一帯にたいして無差別絨毯爆撃をおこなった。
無数の黒い点に見えるものはすべて、直径5~30m、深さ5~10mの、B29による
絨毯爆撃のすえの爆弾穴である
中央右上は岩国駅、左右に山陽本線が走る
空爆は昼前から約25分間にわたっておこなわれ、その密度は他に例をみないものであった。
そのとき岩国駅の状況は、丁度上下列車、岩徳線列車がほぼ同時刻に駅に入り、乗降客、送迎者で人が溢れていた。この爆撃により、駅関係者をはじめ多数の乗客、送迎者、周辺住民が無慈悲に殺され、駅関係施設はもとより、周辺にあった岩国郵便局、東国民学校、岩国国民勤労動員署、食糧営団倉庫などの官公署や多くの民家が破壊、焼失した。岩国駅周辺一帯には、直径5メートルから30メートル、深さ5メートルから10メートルもある爆弾穴が蜂の巣のように無数にのこった。
「岩国市史」によれば、死者517人、行方不明30人、負傷者859人、全壊家屋543、半壊家屋343、罹災者5,911人となっている。だが遺体処理にあたった当時の厚生課長は、死者は一千人を下らなかったと証言している。
―岩国空襲の被害―
3月19日 岩国沖船舶 藤生、通津、由宇 不明
4月02日 栄町国道沿い農場 1
4月16日 岩国陸軍燃料廠発電所 1
5月04日 由宇沖、田島丸沈没 9
5月10日 岩国陸軍燃料廠 333
7月24日 黒島 端島 柱島 28
7月28日 第十一空廠 0
8月09日 海軍航空隊周辺 240
8月14日 岩国駅周辺一帯 571
―何故無条件降伏が決まっていたのに空襲か―
昭和20年といえば、日本の制空権、制海権はすでになく、空爆は米軍のなすがままであった。連合国のあいだでも、同年2月には、「ヤルタ会談」、7月には「ポツダム会談」が開かれ、日本の戦後処理についての検討がされていた。そうした敗戦の年に、全国百五十都市への無差別空襲がおこなわれ、死者50万人、負傷者102万人の非戦闘の人が殺傷された。
戦後の岩国、屈辱の歴史
60年余たった今日、広島、長崎への原爆投下と共に、各地であの忌まわしい出来事が、新たな怒りをともなって呼び起こされ、「何故あのような目にあわなければならなかったのか」という問題意識の高まりをみせている。
岩国でもずっと以前から、岩国空襲は何であったのか。子供や学校、農民・漁民を狙った空襲、周辺住民を殺害しても滑走路だけは無償でのこした川下航空隊の空襲。とりわけ日本の無条件降伏が決定していた8月14日の岩国駅周辺の絨毯爆撃についての疑問は、今も多くの人々のあいだで悲しみと怒りをもってかたられている。
戦後64年たった日本の現状は、親殺し、子殺し、誰でもよかった殺人にもみられるように、極度に荒度し、日本の美風、日本民族の誇りが失われている。そればかりか、あらたな戦争の危機さえただようような事態になっている。今後も精一杯語り継いでいきたいものである。
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
訪問者数
原爆・戦争・原子力等の関連本
検索は…