倉庫の記録
二日め
あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。床の群はなかばに減ってきのうの叫び声はない…
三日め
…K夫人の容態、呼吸三〇、脈拍一〇〇、火傷部位、顔面半ば、背中全面、腰少し、両踵、発熱あり、食欲皆無、みんなの狂声を黙って視ていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄え。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。
4日め
しろく烈し水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげんのしょうこだけ。そしてやがて下痢には血がまじりはじめ、紫の、紅の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐の呻き
五日め
手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる…
六日め
むこうの柱のかげで全身の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそぼそと「君が代」をうたう。
しっかりしなさい。眠んなさい…隣の頭を布で巻いた片目の女がいざりよって声をかける…
腕は動かず、脂汗にじむ赧黒い頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。
七日め
空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすりなく人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりに喘がせる最後の負傷者と。
八日め
がらんどうになった倉庫、歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
ー収容者なし、死亡者誰々ー
峠 三吉「倉庫の記録」(抜粋)
-手のほどこしようもない症状-
広島第2陸軍病院の収容テント内
医薬品もなく、火傷した顔にちんく油を塗って、ガーゼをのせるのが精一杯だった。
広島 爆心地から約1.2キロ
8月7日
-その苦痛は自殺を欲する苦しみ-
……
一方火傷の人々は
幾度皮膚が貼っても又その底からの膿で破れ
その苦痛は自殺を欲する苦しみ
そのような中で死ぬものは死に
残るものは残ったが
戦後七年間の歩みの中で
この原爆の影響がどのように尾をひいているか
東雲付中で 生徒たちに「生い立ちの記」を
書かせたら 殆んど全部のものが
原爆のことにふれていたというほど
広島の人々の間にしみ通っている
原爆が
ケロイドにより原爆症により
いかなる被害を及ぼしているか
あの驚きのために気がふれた子供
馬鹿になった(記憶喪失)青年
治療ののぞみのない体に
絶望のあまり自殺しようとするもの
それらの悲しみと苦悩は
すでに今迄の年月の間で
耐ええぬものは死に
耐えられるものは踏みこえて来たものの
顔面のケロイドのために
平常は家にひきこもり
八月六日の命日のみには
爆心地の供養塔に参りにゆく姿の
みられる娘さんたちの
胸に秘めた涙は
何によって慰められる事が出来よう
峠 三吉「すべての声は訴える」(抜粋)
熱傷の被爆者
やけどの治療を受ける女性
-原爆症がはじまった-
脱毛した姉と弟
爆心地から約1キロメートル、舟入町五四番地の自宅で被爆した姉(十一歳)と弟(九歳)は、二か月目ごろから頭髪が抜け始めた。弟は昭和二十四年に、姉は結婚して一児の母となったのち四十年に、それぞれ原爆症で死亡した。二人は机を合わせ仲良く夏休みの宿題をしていたとき被爆した。
ぼくのあたま
四年 河合堅治(広島市舟入小学校)
ピカドンで
ぼくのあたまははげた
目もおかしくなった
二つのときでした
大きくなって
みんなが
「つる」とか「はげ」とかよんだ
また
「目くさり」といった
ぼくは
じっとがまんした
なきそうだったが
なかなかった
「原子雲の下より」
-継続しておこる原爆症-
右でん部が皮膚がんになった男性
広島 爆心地から1.2キロで被爆
日赤病院
斑点が出たら死ぬといわれた
広島 爆心地から1キロで被爆した兵隊
皮下出血、口内炎、脱毛の症状も
9月3日
胎児被爆による原爆小頭症の子どもと母
原爆は、母親の胎内でその放射能を浴びた胎児にもさまざまな影響を及ぼした。
高度の知的障害や 生まれながらの身体障害を持つ患者たちは、肉親の手厚い介護で生き抜いてきた。
広島 1978年4月
すべての声は訴える
原子爆弾症は継続して起こりつつあり
戦後現在まで 全く何ともなかった者が
急に白血球の減少 又は 急増を来して
死に瀕しつつあること …
そして又それらはすべて治療の方法がなく
その見通しさえないとしたら
又落された時どうなるのであろう
原子爆弾の使用されぬことを
再び戦争の起こされぬことを願う必死の声は
この苦悩の中から叫び出されているのだ
峠 三吉「すべての声は訴える」(抜粋)
原子雲の下より 序文(抜粋)
1952年8月3日
…そのような歴史の転換の中で生き残った市民は原爆症に襲われ、脱毛、発熱、下痢、嘔吐、内出血を起こし、その年の冬へかけて再びつぎつぎと倒れていったのである。
しかし原爆の真の悲劇はこれから始まったといえるであろう。
生き残るものは生き残り、生活のあい間に過去の事実は忍んで来たものの、日々の苦しい生活の闘いの中で各家庭、各個人の中にいよいよ深く滲透してくる原爆の苦悩は、これと直面せずに踏み越えることはできない。
峠 三吉
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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