-自殺を欲するヤケドの苦しみ-
長崎 爆心地から1.8キロの路上で被爆
電報を配達する16歳の少年
(谷口稜曄(すみてる)さん)
背中の全面が焼けただれ、
「殺してくれ」と叫んでいた。
■■■関連情報
谷口稜曄(すみてる)さんは原爆被害の生き証人として語り続けていらっしゃいましたが、
平成29年8月30日に長崎市でお亡くなりになられました。
享年88歳。
お悔やみ申し上げます。
▶長崎 8月下旬
脱毛した少女
脱毛は、被爆後第2週突然はじまり
1~2週間続いた。
◀長崎 8月10日2時ごろ
無表情で手当てを受ける動員女学生
山端庸介氏撮影
幼子を残して死んだ姉
中新町に自宅があり、学校卒業後、しばらく兵器の食堂に勤めていたが、姉と交替し、原爆のときは姉が食堂で働いていた。私は自宅でタタミを拭いていた。台所にあった石臼が目の前をすごい勢いで飛び、少し離れた横の方でドスンと落ちた音がした。父と姉を捜しに出たが、当日はとても近づけなかったので、二日後に兵器の方や、救護所になっているところをあちこち歩き回った。足を掴んでくる人、「水、水」というので、「一口だけよ」と水筒を渡すとゴクゴク飲んでしまう人、黒焦げの人など、このパネルの状況はみな見て来た。時津まで探しに行ったが見つからず、「大村に行ってみては」という人がいたので、体調を崩し始めていた私を置いて、父だけが探しに行った。姉は建物の下敷きになりしばらく気を失っていたが、意識がもどり、助けを求めていると憲兵隊の人たちが助け出してくれたそうで、大村の海軍病院に運ばれていた。ガラスの破片が全身に刺さっていたが、特に背中のガラスがひどく、うつ伏せに寝かされていたので、父にもどれが姉なのかわからなかったという。連れ帰ってからしばらく入院し、ガラスを全部取ってもらった。でも薬もないので、スルメやゆず、どくだみの煎じたものを飲ませたりして、なんとか助かった。家族みな、それを飲んでいた。私はいまだに飲み続けている。姉は結婚しないといっていたが茂木の人と結婚した。だが、最初の子どもは生後すぐ、目は開けたが、口から黄色いものをたくさん吐いて亡くなった。
七十六歳(取材当時)・婦人
二番目の子どもは元気だが、姉は昭和二十八年、幼い子を残して原爆症で亡くなった。亡くなる前、お腹が腫れて、髪は全部抜けた。手鏡を見ながら櫛で髪をすき、髪の毛が全部抜けていくのを無表情で見ていた姉の姿が忘れられない。父も喉頭がんで亡くなった。母も私も髪が抜け、私は体中に紫色の斑点が出た。戦後、ABCCから連絡が来たが行かなかった。
私の夫は兵隊でニューギニアに行き、司令官と二人だけ生き残っていたが、その司令官も亡くなり、たった一人で帰ってきた。夫の体も傷だらけだった。戦後、三菱で働いていたが七十歳ころからじん肺で寝たきりになり、五年間看病した。夫は「ニューギニアも大変だったけど、長崎はもっと大変だったんだな」といっていた。
腰の骨を折って入院したとき、先生から「普通の人が今回の手術をしたら百万円はかかる。あなたは被爆者だからいいけど」といわれ、くやしかった。だからそのとき、「私は原爆で父も姉もなくしているから(二人はなんの補償もなく亡くなった)その二人が生かしてくれているのだ」と話した。最近は足も目も悪くなり、あのとき姉と一緒に死ねばよかったと一人で泣くこともあるが、生かされていると思い、生きてきた。原爆のことは何年経っても忘れることはできない。いいものを見せてもらった。こういうことをやってもらってうれしい。
「沈黙を破る長崎の怒り2」より
◀長崎 爆心地から約4キロ
路の尾駅は救護列車の折り返し地点になっていた。駅前にむしろが敷き詰められ、負傷者たちが転がっていた。鳴き声もでないほど弱り切った幼子たち。避難してきた人々も手伝って、筆でチンク油がぬられた。
山端庸介氏撮影
五つだったがよく覚えている
六十代(取材当時)・婦人
諏訪神社の近くで被爆した。母が台所の仕事をしていて、ガラスが体に刺さった。四時ごろになったら金比羅山から西山に行った。救護所が以前の東高校だった。そこで被災者を看護していたがなにも着ていない人ばかりだった。五つだったがよく覚えている。諏訪神社には死体がごろごろしていた。あそこで水を飲んで死んでいった。母はけがをしていたが、いつまでたっても語らなかった。
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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