物資の補給なく
戦える状態ではなかった
「私は昭和十七年、佐世保相浦海兵団で二カ月間の新兵教育を受け、佐世保海軍病院看護術練習生をへて、昭和十九年の十月、看護兵としてレイテ沖の海戦に送られた。米軍に撃沈され、漂流した私は住民の漁船に拾われ、日本軍が使っていたキャビテ軍港に引き揚げられたが、本隊からは『帰国しなくてよい。現地の飛行場へ赴任せよ』と命じられた。飛行場といっても飛行兵はレイテ海戦の特攻で一人もおらず、配属された第九五五海軍航空隊も残っているのは整備員ばかりだった。
昭和二十年の一月、マニラ防衛海軍陸戦隊が組織されたが、私をはじめまともな戦斗教育を受けたことのないものばかりだった。。約二百名で米軍が突入する四日前に荷物を載せた大八車を押しながらマニラ入りした。だが、米軍のマニラ空襲で八百から千人いた一、二大隊は全滅した。私はマニラ近郊のマッキンレーという町にいたが、二月十七日に脱出し、川づたいに東側のラモン湾のインファンターという部落に向かった。それから四月から九月までの六ヵ月間、米軍の執拗な攻撃を逃れ、食料を探しながら山の奥へ、死に場所を探す逃避行が続いた。すでに武器、弾薬、食料などの物資補給はなく、敵に一発でも撃てば数十発返ってくるので戦斗ができる状態ではなかった」
(長崎市 酒井冨吉)
栄養失調で死んでいった兵隊
「バギオでは患者が栄養失調でどんどん死んでいった。看護婦は米粒を数えられるほどではあったがもらえた。患者にはまともな米は与えられていなかったのではないかと思う。内科病棟の下の方には人が五十人ぐらい入れるぐらいの大きな穴が掘ってあり、栄養失調で死んでいった兵隊さんたちを物を投げるようにどんどん放り込んでいた。本当に悲惨だった」
「本土で送りだすときにはお国のためと万歳をして送り出したのに、敵の弾に当たって死んだのではなく餓死していったということを伝えたらなんと思うだろうかとそのとき思った。その人たちの遺骨はない。髪の毛と爪を木箱に入れて本国に送り返していた」
(大阪府、元従軍看護婦・岡田恵美子)
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