トップ>展示内容>第二次世界大戦の真実>支那事変 日中戦争
南京では死体で揚子江が
真っ黒になっていた
「兵隊になると同時に昭和十二年七月に日中戦争が勃発した。私は支那方面艦隊司令部で上海にいた。そして、杭州湾、広東湾、海南島などの上陸作戦に参加した。そのころはまだ海軍にとって有利な戦争だった。実践に参加したのは南京の攻撃作戦だった。南京虐殺をしたとかしないとかが話題になっているが、私はこの目で見た。揚子江で遡行作戦をやったが、南京に近づいたとき、河が上流から真っ黒になっていた。ゴミがいっぱい流れていると思ったがそれは人間だった。実際をまのあたりに見て、なんでこんなことになったんだと非常に憤りを感じた。それがいまでも目に浮かぶ」
(下関・元海軍 宮崎宗夫)
なぜ、よその国に軍隊を送って
戦争したのか
「私は昭和十二年、二十一歳のとき召集されて入営した。まもなく支那事変が起こった。中国の桂林、上海、南京、漢口、長沙などにいった。はじめ自動車部隊に配属になり、前線に食料を運ぶ仕事などをしていたが、戦場というものは哀れなものだ。日本軍は後退は許されず、前進あるのみ。あるとき、戦斗中に隣りにいた戦友に「いくぞ」と声をかけた瞬間、全く動かなくなった。見ると鉄兜から脳にまともに弾が貫通し、そこから脳ミソが出ていた。語れば語り尽くせないがそれが戦場だ」
(下関 傷痍軍人)
●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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