六十五歳(取材当時)・婦人
五歳のとき飽の浦の自宅の庭で弟と遊んでいたとき、きのこ雲を見たのを覚えている。きのこ状の白い雲が流れたあとに真赤というか橙色というか、ハロゲンみたいな火の玉が燃えていた。叔父と叔母は広島で被爆して、避難した長崎で被爆した。その叔父は半身ケロイドになっていて四回くらい手術をくり返していた…
戦後のたいへんさは昭和二十年ごろまでつづいた。長崎は広島に比べたら被爆したことをかくしたりじっと耐えてきたりして、確かに静かだった。でもこれからは長崎が立ち上がらなければいけない。
「長崎の怒り」”長崎がたちあがらなければ”(抜粋)
八十一歳(取材当時)・男性
国鉄の機関士だった。八月九日は、門司発、長崎行きの夜行列車を、早岐から長崎の区間、運転していた。途中空襲警報などの関係で午前七時到着予定が午前十時ごろになった。すすで真黒になって長崎機関区で風呂に行っていたときにピカッと光り、とっさに体の右側を下にしたら、ガラスが割れ左側に硝子が刺さった。戦後もガラスが出てきていたし今もまだ入っている。服も吹き飛ばされ真裸で防空壕に向った。下宿は一本鳥居の下の片岡というタバコ屋の二階だったので様子を見に行くと家ごと吹き飛ばされていた…
「長崎の怒り2」”国鉄の機関士だった”(抜粋)
-閃光 爆風 放射能が…-
◀長崎 爆心地から230メートル
吹き飛ばされた電車と乗客の死体。
黒くうつっている部分は真赤だった。
山端庸介氏撮影
焼け焦げて死んでいた友達
七十代(取材当時)・婦人
嫁ぎ先から西坂の実家に帰って父と座敷で話をしているときに、突然土間にたたきつけられて土壁の下敷になった。土煙の中で気がついて必死に母親を呼び、助けられながら防空壕まで逃げた。そこではさっきまであいさつをかわした町内の人たちが目玉が飛び出したり、全身ボロボロに焼けただれた姿に変わり、口ではいいつくせない悲惨な状態だった。敵機来襲のなかをかくれたりはいずったりしながら、死体やガレキを乗りこえて母と手をつないで叔母の家まで行った。松山町では友達が頭を並べて焼けこげて死んでいた。賑町の親和銀行のところでは死体を山積みにして焼いていた。死体にはハエがたかり、ウジがわいていた…
「長崎の怒り」(抜粋)
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●更新情報●
11/10 原爆と戦争展のご報告とご来場者の声アンケート掲載
戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。
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